官能小説販売サイト 勝目梓 『夜の迷宮』
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勝目 梓    夜の迷宮ラビリンス

目 次
性的趣味
夢の終わり
仮 面
愛人関係
四重奏
牡の匂い
拾った女


(C)Azusa Katsume

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   性的趣味

 そのマンションはすぐに見つかった。
 電話で説明されたとおり、東中野駅から歩いて十分余りの場所だった。
 商店の並んだ道の裏手の静かな道路に面した、目立たない外観の建物だった。建ってまだ間がないように思えた。
 古川と敏子は、足を停めて、マンションの建物を見上げた。どの窓にも明かりが見えた。
 指定された時間は、午後九時だった。古川は腕の時計を外灯の光にかざした。ちょうど九時になっていた。
 古川は無言で横の妻を見やってから、足を踏み出した。敏子は問いかけるような眼を夫に向けた。二人とも口はきかなかった。
 玄関の明かりの中に入るとすぐに、敏子が古川の手をにぎってきた。古川もにぎり返した。そうやって手をつないで歩くことなど、何年ぶりだろう、と古川は思った。
 エレベーターに乗ったのは、古川と敏子だけだった。
「ドキドキしてる、あたし……」
 敏子が、にぎったままの古川の手を、自分の胸に押しあてた。敏子の胸の動悸は、古川の手には伝わってこなかった。コートの下の乳房のはずみが感じとれただけだった。
「あなたは平気?」
「平気なもんか。キャンセルしてもいいんだよ。外に出て電話するかい?」
「だって……」
「直前にキャンセルする組も結構いるらしいんだ」
「お金、とられちゃうんでしょう?」
「キャンセル料はね」
「ここまで来たんだもの。やっちゃおう」
「相手のカップルが気に入らない人たちだったらどうする?」
「問題はそれよね」
 エレベーターは五階で停まった。夫婦は手をつないだまま、廊下に出た。
 教えられた部屋は、五〇五号室だった。中村という表札が出ていた。中で行なわれていることの中身を示す看板のようなものは、当然ながら、見当たらなかった。
 古川はインターフォンのボタンを押して、あらかじめ考えておいた偽名を名乗った。女の声の応答があった。ドアが開けられるまで、ちょっと待たされた。
 出てきたのは、グレイのスーツを着た、五十年配の小柄な女だった。縁なしの眼鏡をかけて、髪をおかっぱふうにしているせいか、教師かベテランの秘書か、あるいは何かの社会運動家、といった印象があった。しかし、口を開くと、ばかに愛想がよかった。口数も多かった。そうやって客の緊張を解いてやっているつもりかもしれない、と古川は思った。これも一種の社会運動と言えなくもないな、と古川は思って、笑いをかみ殺した。
 促されて、古川と敏子は靴を脱いだ。そのときまで、敏子はずっと古川の手をにぎったままでいた。
 敏子が、自分と古川の靴をそろえて、向きをなおした。黒いタイルの玄関には、女物のビニールのサンダルがあるだけだった。古川は、相手のカップルはまだ来ていないのだろうか、と思った。
 玄関から横に向かって、せまい廊下がついていた。廊下の突き当たりに、太い格子のアーチ型のガラスのはまったドアがあった。女はそのドアに向かって、古川たちを案内した。古川のあとについていた敏子が、歩きながらまた夫の手をにぎった。その手は少し汗ばんでいた。
 スーツの女が賑やかな声でドアを開け、古川と敏子を中に促した。十畳ほどの部屋で、応接間のしつらえになっていた。明るいグレイの絨毯を敷きつめた中央に、ほとんど同じ色の革張りのソファが置いてあった。ソファには二人の先客があった。男と女で、入口に背中を向けていた。二人は古川たちが入っていっても、ふりむかなかった。
 スーツの女が先に立って、古川と敏子をソファに案内した。先客たちと眼が合った。古川は女の顔を見たとたんに、声をあげそうになった。声は出なかったが、口は開いた。女の顔にもおどろきがひろがった。女はすぐに顔を伏せた。
 古川と女の表情の急変は、ほんの一瞬で消えていた。それに敏子や、女連れの男や、スーツの女が気づいたようすはなかった。相手の女は、六年前に離婚した古川の前の妻の暎子だった。
 古川と敏子は、スーツの女に声をかけられて、ソファに腰をおろした。古川の胸には、おどろきが尾を曳いていた。彼は窓の横の壁ぎわに置かれた、丈の高いポトスの鉢に眼を投げた。
「こちらが加藤さんご夫妻です。こちらは前田さんご夫妻。よろしかったら、お酒をさしあげますが……」
 スーツの女が二組のカップルを紹介した。古川は前田と名乗っていた。相手の加藤というのも、おそらく仮の名前だろうと思った。加藤がにこやかに頭を下げた。暎子もうつむいたまま、体を前に倒してお辞儀をした。古川と敏子がそれに応えた。二人とも表情がぎごちなかった。
「ぼくはウィスキーをロックでください」
 加藤が言った。
「奥さまは?」
 スーツの女が暎子に訊いた。
「わたくしも同じものを……」
 暎子が細い声で答えた。その声は昔と変わっていない、と古川は思った。彼には、敏子が暎子の顔を知らないのが、救いに思えた。加藤も古川のことは知らないはずだった。
 結局、古川と敏子も、ウィスキーのオンザロックを頼んだ。スーツの女が酒の銘柄を訊いた。そのときも加藤がまっ先に口を開いて、ジョニ黒と答えた。他の三人もそれに同調した。古川は酒の銘柄など、どうでもよい、といった気分に押し包まれていた。
 スーツの女が、サイドボードの横の大型のワゴンのところに行って、四人の酒を作った。ワゴンの横に小さな冷蔵庫と、おしぼりのボックスが、重ねて置かれていた。女はトレイに四つのグラスとおしぼりをのせて、ソファに戻ってきた。
「乾杯なさいますか?」
 スーツの女が、グラスを四人の前に配ってから、そう言った。加藤が暎子に眼をやった。暎子は顔を伏せたままだった。加藤が暎子の背中に手を当てて、また先に口を開いた。
「乾杯といきたいですな」
 加藤は先に古川を見て、すぐに敏子に視線を移した。敏子が加藤の視線から逃げるようにして古川を見た。敏子の眼は揺れていた。古川に決定を任せている眼だった。
「乾杯しましょう。ね」
 古川は、最後に敏子に念を押すように言って、暎子のほうに眼を向けた。暎子が顔をあげた。彼女は古川から視線をはずしていた。顔にはとりすました表情しかなかった。
「おめでとうございます。それではグラスをお合わせください」
 スーツの女が言った。四つのグラスが宙に集まり、小さな音を立てた。それがスワッピングの約束が成立したことを意味していた。そのことは、古川も敏子も、事前に電話で説明を受けていた。
「お部屋は隣りでございます。お風呂がせまいので、恐縮ですが交替でお使いいただくことになります。それでもお二人さまは一緒に入れますけど……」
 スーツの女が立ち上がって言った。
「ぼくらは出がけにシャワーを浴びてきました」
 加藤が言った。古川と敏子も入浴はすませていた。古川がそのことを口にした。スーツの女が挨拶をして出て行った。
 沈黙が生まれた。短い沈黙だった。加藤がまたリーダーシップを取った。彼は暎子に古川の隣りに座るように言い、敏子を自分の横に手招きした。敏子と暎子は同時に、ためらいがちに腰を上げた。
 そのときになって、古川ははじめて、観察とも品定めともつかぬ思いで、加藤を見た。加藤は四十歳は過ぎているように見えた。顔立ちがととのっていて、恰幅がよかった。商売の見当はつかない。サラリーマンではなさそうだった。神経の太そうな感じがあった。ダークブラウンの細かい千鳥格子のツィードのジャケットに、キャメルカラーのスラックスをはいて、モスグリーンのタートルネックのセーターを着ていた。
 暎子は三十六歳になるはずだった。加藤との年の差がいくつになるのかわからない。六、七歳は離れているのだろう。
「初めてですか? こういうご経験は?」
 加藤が言った。
「初めてなんです。一度ぼくらも体験してみたかったんですよ。加藤さんは馴れてらっしゃるようですね?」
「馴れちゃいませんが、今度で四回目です。いいもんですよ。倦怠期のリフレッシュ策には最高じゃないですか」
 加藤は屈託なげに言って笑い、敏子の肩に腕を回した。自然なやり方に見えた。敏子の肩は見るからにこわばっていた。古川も加藤にならって、暎子の肩を抱こうとした。だが腕が動かなかった。
 それを見越したように、暎子のほうから体を寄せてきて、グラスを持った手を古川の膝にのせた。古川は胸の奥に深い戸惑いを覚えながら、思いきって暎子の肩を抱き寄せた。暎子の体はこわばってはいなかった。古川の戸惑いは、さらに深くなった。
 六年ぶりに見る暎子は、昔とは別人のように変わっている、と古川は思わないわけにはいかなかった。古川の知っている暎子は、スワッピングに応じるような女ではなかった。
 
 
 
 
〜〜『夜の迷宮』(勝目梓)〜〜
 
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