勝目 梓 禁じ手
目 次
ハレンチ作戦
盗む女
仮面の女
淫風の家
禁じ手
老人の愉しみ
声
(C)Azusa Katsume
◎ご注意
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。
個人利用の目的以外での複製等の違法行為、もしくは第三者へ譲渡をしますと著作権法、その他関連法によって処罰されます。
ハレンチ作戦
アイデアは電車の中で生れた。
突然にひらめいた、というのではなかった。とりとめもなく頭に浮かんでいたことが、そのまま妙なところにころがっていって、アイデアに結びついたのだった。
けれども、それはすばらしい着想に思えて、そのとき田中幸男は思わずニヤリとした。もう少しのところで、彼は声をあげ、膝を叩いてしまうところだった。
初冬の暖い午後のことである。場所は山手線の中。車内はすいていた。シートに坐り、窓ごしの陽ざしを背中に受けて、舟を漕いでいる乗客も何人かいた。
田中幸男は、田端にある漫画家の仕事場に行くところだった。依頼してあった連載漫画の、一回目の原稿を受け取るためだった。田中幸男は、新宿にある雑誌社に勤めている編集者だった。
新宿で電車に乗ったとき、田中幸男は期待と不安を、こもごも感じていた。これから手にする連載漫画の一回目の原稿の出来栄えが、すばらしいものであることを、彼は祈らずにはいられなかった。
仕事を頼んである田端の漫画家は、キャリア十分の実力派で、大酒飲みだった。肝臓に問題をかかえていた。そのせいかどうか、仕事の面でも問題があって、作品の出来栄えにムラがあった。
漫画家自身は、仕事上の問題の原因を、肝臓のかかえている問題に結びつけたがっている。そして、その先の大酒が問題であることを無視している。それは、女が妊娠するのは性交のせいではなくて、彼女が子宮を持っているからだ、というのと同じ理屈じゃないか、と田中幸男は考える。
新宿で電車に乗って、高田馬場を過ぎるあたりまでは、田中幸男はそんなふうに、田端の先生の酒と肝臓と仕事上の問題について、考えていた。他社の作品はどうでもよいから、うちの連載原稿執筆中は、先生の肝臓が不機嫌におちいらないように、と彼は祈った。
電車が目白に近づくあたりで、田中幸男は眠気に襲われた。居眠りを始めるまでには至らなかった。けれどもそのころには、漫画家の肝機能のことも、原稿の出来栄えに対する期待や不安も、田中幸男の頭の中では、すっかり影がうすくなっていた。
そして、電車が目白駅に停まったときは、田中幸男の眠気までが跡形もなく消え去り、眼は冴えわたっていた。目白駅で、眼を見張るほどの美人が乗客となって、田中幸男の正面の席に腰をおろしたのだ。
その女性を眼にしたとき、田中幸男がまっ先に考えたのは、彼女は女優かテレビタレントではないか、ということだった。
三十歳になったかどうか、と思える年恰好の、細面の彫りの深い顔立ちの女性だった。ほとんど目立たないような化粧をして、光沢のある髪を無造作に後ろでまとめ、うすいグレイのウールのコートを着て、黒のショートブーツをはき、黒のハンドバッグを持っていた。
田中幸男は、大急ぎで頭の中に、それらしい女優やテレビタレントの顔を並べてみた。該当者は出てこなかった。
テレビタレントにしては、品がありすぎるのではないか、と思った。電車に乗ってきて、車内を見渡し、シートに腰をおろすまでの彼女の立居振舞いには、たしかに落着いた穏やかな、なんとも言えないやわらかな雰囲気があった。
女優だとすれば、映画やテレビドラマなどには顔を出すことのない、新劇かなんかのほうの人だろう、と田中幸男は思った。そして、美人と見ると、派手な芸能人に連想が走ってしまう自分の頭の浅薄さを、正面に坐っている正体不明の美人に対して、少しだけ恥じた。
電車が動き出すと、問題の美人は、バッグからハードカバーの本を取り出して、きちんとそろえた膝の上で開いた。本の表紙と背表紙に並んでいるのは、すべて横文字だった。大きな活字だけは、田中幸男の席からも読み取れた。フランス語のようだった。
田中幸男には、眼の前にいるその女性が、ますます魅力的な存在に思えてきた。とびきりの美人で、品がよくて、感じがやわらかで、フランス語の原書が読める教養と知性の持主で――そういう女性は漫画雑誌の編集者である田中幸男のまわりには、一人としていない。人種がちがうんだ、と田中幸男は胸の中で呟いた。
人種はちがうにしても、セックスのやり方や好みまでが、こちとらと大きくちがってるなんてことはないだろう、と田中幸男が考えたのは、眼の前の美形に対して彼が勝手に覚えてしまった、いわれのない劣等感の裏返しであったかもしれない。
|