北山悦史 やわひだ巡り
目 次
第一章 斬殺
第二章 教え子の母
第三章 凶刃の昂り
(C)Etsushi Kitayama
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第一章 斬殺
一
陽が傾きはじめている。
左斜め上方から射す陽は暖かく、とても霜月とは思えない。江戸よりも、確実に温暖な土地だ。
結城拓馬は成田屋の娘、なおと一緒に、懐かしく面映ゆくもある酒々井の街道沿いの茶店にいた。
成田からの帰りだった。
昨日、塾が終わって後片づけをしているときに、本家に反物を届けに行く用事があるとなおが言ったので、今日の塾は休みにして、ついてきたのだった。
その場には綾もいたが、自分も一緒に行きたいという素振りは見せなかった。
拓馬となおをたまには二人きりにさせてやりたいと思ったのかもしれなかったし、途中で拓馬が酒々井の里のくみのところに寄るなら寄っても、と思ったのかもしれなかった。
母の鈴に見られさえしなければ、自分と拓馬はいつでも愛を確かめ合うことができる。拓馬を自分の家で飼い殺しのようにしていると、なおに思われたくない、という気持ちもあるのだろうか。
佐倉藩士立花九八郎の娘である自分が、町人の娘であるなおに対してお高くとまってはいない、以前同様、仲のよい友達だと思われたい気持ちもあるだろう。
そうであればこそ、なおを引き込んで拓馬と自分と三つ巴で楽しむ性戯にも、むしろ積極的といっていい綾だった。めくるめくその悦楽は、まだ二度しか味わっていないが。
拓馬となおは、さっきまでいた成田のことを話しながら、店の娘が運んできた団子を食べ、茶をすすっていた。
店の外に横に並べて置かれた竹製の長椅子に座っている。晩秋の陽射しを浴びながら飲食するのを好む客が多いのか、前に見たときは二脚しか椅子はなかったはずだが、今は四脚も出されている。
拓馬たちは、店を背にして、一番左の椅子に腰掛けていた。椅子には五人は座れるが、二人だけだ。
右隣の椅子には、成田詣での帰りか、振り分け行李と菅の笠を足元に置いた旅装束の三人連れの町人の男がいる。
店の入り口を挟んでその向こうの椅子には、大刀を脇に置いて、浪人髷の男が一人で座っている。
一番向こうの椅子には、近くの者らしい初老の男女がいる。夫婦だろうか。薄暗い店の中にも何人かの客がいて、談笑の声が聞こえてきている。
拓馬たちに団子を運んできた娘は、十五、六歳の感じだが、この店の娘らしかった。夫婦と娘で切り盛りしているようだ。
なおの話に相槌を打ちながら、拓馬は頭の中では、くみのことを思っていた。くみと出会ったのは、一町ばかり向こうだ。
あのときがあって、今がある。むろん、ここに来る渡しでなおと隣り合ったこと、成田山の本堂で再会したことも、今の自分の原点だ。
早道(財布)をなくして途方にくれていたときにくみと出会った道の両側は、すでに切り株だけになった金色の田が広がっている。青い葉は、もうどこにも見えない。
今住んでいる佐倉の町で、刈り取りがすんでしばらくたった田というものを、生まれて初めて見た。
散歩の途中で見たのだったが、目を疑った。切り株から、新芽のような茎と葉が伸びている。見渡せば、遠くには、青田のようにも見える田もあるではないか。
植物の活力というものを思い知らされる気もしたが、新たにまた稲穂が出てくるのではないかと、新鮮な驚きとともに思った。
「ひょっとして、霜が降りる前ぐらいにでも、二度目の収穫ができるんですか」
鈴と綾と拓馬、三人の夕餉の席で、拓馬は言った。
本当にそう思っていたし、それだけの収穫ができるようになったから、義民佐倉惣五郎の将軍直訴以降、近隣は飢えに苦しむこともなくなったのかと、正直、思っていた。
「まさか! 拓馬様も冗談がお好きですねえ」
箸を持つ手を口に当てて鈴は笑い、綾も、口の中のものを噴き出しそうにして、身悶えしていた。
拓馬も頭に手をやって笑ったが、旗本の息子として何も知らずに育ってきたことを、いまさらながらのように思った。
といって、恥、という感覚は、ないといってもよかった。知らないものは、知らない。訊くべきことは、訊く。
それでいいのだ。胸襟を開き、そうしている自分、そうできる自分が、今は嬉しかった。
この大らかな気持ちは、何人もの女を知り、その女たちを心ゆくまで歓ばせてやっている自信からくるものでもあるのか。
(くみのところには、あらためて来よう)
ここからひとっ走りで行くことができるところにいるくみを、思った。
さすがに今、くみのところに行くからとなおと別れるのは、恩人の一人に不義理を働くというものだろう。
(体をいたわって仕事してるかな)
つい、くみに熱い心が向いてしまうのは、どうしようもないことだった。
くみのおなかに拓馬の子供がいることは、佐倉の誰も知らない。身分の壁を打ち破るのは無理かもしれないが、それでもくみに対する自分の気持ちは、ほかの女たちに対するものとは一線を画していた。
この前、くみのところに行ったとき、拓馬は父の与助や母のみやに頭を下げすらして、一緒に暮らしたいと頼み込んだ。
しかし、くみが拓馬の子を宿したことでは顔を崩して喜んだのに、与助もみやも首肯しなかった。
身分が違いすぎる。いくらそのようなことをされても、江戸の旗本様と同居など罰が当たると、そのことでは頑として、与助たちは聞き入れてくれない。
父や母がそうであれば、くみもまた、うなずくことはできないのだった。
「生まれた子は、うちの宝物として育てます」
まだ目立ちはしないくみのおなかに目をやりながら、与助は言った。
「同居はお断りいたしますが、来ていただくのはもちろん大歓迎です。というより、できましたら毎日いらしてください」
与助のその言葉にみやは目を細めて同意し、くみははにかみを見せて顔を伏せた。
「拓馬様、はい、あ〜ん」
刀が苦手で右側に座っているなおが、言った。ふとわれに返って顔を向けると、串に残っている黍団子を食べさせようとしている。
「え? なんでまた」
拓馬は笑った。
「いいから、はい。お口、開けて」
皿を左手で持ち、右手で串をつまんで、なおは拓馬に体を向けている。
山吹色の着物がいつになく眩しく見える。拓馬の思いでそう見えるというより、久しぶりに二人きりで道行きをしてなおの気持ちが浮き立っているように、拓馬には思えた。
「わたしのを、拓馬様が食べる。そして拓馬様のを、わたしが食べる」
「どういうこと」
ほかの客の手前、声を落として拓馬は言った。拓馬の団子も、一個残っている。
「わたしたちの仲が裂かれないままかどうか、確かめたいんです」
「仲? ああ、あの観音様のことだね」
「そう。やっぱり、ちょっと心配で」
くりっとした目で、なおは拓馬を見つめた。結婚ということはほぼありえない身分同士だが、少なくとも今しばらくは、いや、できれば将来もずっと、関係をつづけていきたいと訴えている目だった。
成田屋の本家を退出したあと、二人で成田山新勝寺に詣でてきた。なおは、そのときのことを言っているのだった。
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