北山悦史 やわひだ崩し
目 次
第一章 救 出
第二章 甘 宿
第三章 山駆ける
第四章 身代わり女中
(C)Etsushi Kitayama
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第一章 救 出
一
師走の陽は、左斜め前方に傾きだしている。
月ももう半ばだが、意外と暖かい。しかしこれは、朝からひた歩きに歩いているからだろうか。
結城拓馬は朝早く船橋宿を出て、一路江戸を目指し、北に歩いてきた。
江戸はもう一息。今、柳島村というところにいる。歩いているのは、成田街道から一本、内陸に寄った道らしい。
旅の者や村人が繁く行き来していたが、いつしか人影は少なくなり、さらに減って、前に人の姿はなく、はるか後方に二人の村人らしい姿があるだけだ。
道を行く者たちが多かったあいだ、拓馬から見て道の右側に、川が流れていた。川は次第に道から離れ、右に曲がっていった。
道の右側にも左側にも、畑が広がっている。右側の青々とした葉っぱは、小松菜だろうか。左側は大根らしい。
左側の畑のはるか向こうには、こんもりとした森がつづいている。森を抜けると、江戸前の海が見えるだろう。
(右か。左か)
あと五、六間、行ったところで、道は二股に分かれている。拓馬は分岐点に建っている石塚を見ながら歩をすすめていった。
中間・小者たちに連れ戻された志穂がいる秋月家は、日本橋佐久間町にある。一刻も早く志穂を救い出しに行くのなら、江戸市中には近い左の道を行くべきだろう。
しかし、二千石の旗本、秋月家に単身乗り込んで志穂を奪還する可能性は、万に一つもないと言える。
それでなくとも志穂は脱走し、拓馬を追って成田に向かったのだ。
先月迎えたばかりの嫁が家から逃げ出したことが知られれば、世間に恥をさらすことになる。
志穂は、もう上松家の人間ではないから生家には寄らなかったと、拓馬に話した。
もし寄って、親に事情を話したりでもしていれば、秋月家の面目は丸つぶれということになる。
秋月家では、首尾よく志穂を連れ戻すことができた今、家来たちを動員し、二重三重に脱出防止の策を取っているのは、想像に難くない。
そこに、剣の腕が立つわけでもない拓馬が一人乗り込んでいったところで、赤子の手をひねるよりも簡単に追い返されるか、斬り殺されるかするだろう。
(おれもおれなりに策を練らなければな)
厚手の道行の上から懐の武具に触りながら、拓馬は石塚に近づいていった。
『右 押上村』
『左 亀戸村』
幅一尺、高さ三尺ばかりの塚には、そう刻まれている。
押上村を通って行けば、本所北部に至るはずだ。亀戸なら、本所中央部・南部か。本所南部には、拓馬や志穂の実家がある。
日本橋の秋月家のことを考えれば、そこに近い本所南部に至る道を行ったほうがいいだろうが、知った顔には会いたくない。
ましてや、拓馬がいなくなってせいせいしているだろう家族には、会いたくない。
「なんだ、拓馬。帰ってきたのか」
「どうして帰ってきたのだ?」
などと面と向かって言われたら、捨てられたような身の上、自分もカッとして、何をしでかすかわからない。
そう思ってまた拓馬は、道行の上から懐の武具に手をやった。
取り出しやすいように仕分けされた布袋に、棒手裏剣が十本と鋲を打ち込んだ鉄輪を二個、入れてある。
一昨日、鍛冶屋の作治に急いで作ってもらったものだ。鉄輪は二個あったので、とりあえずはよかったが、志穂を連れ戻しに来た秋月家の者たちとの戦いで、棒手裏剣は使い果たしていた。
それで一昨日、作治に礼金をはずんで、棒手裏剣を五十本と鉄輪を六個、急遽作ってもらったのだった。残りの棒手裏剣と鉄輪は、振分け行李に入れてある。
鈴と綾に暇乞いをして佐倉を発ったのは昨日だが、棒手裏剣を作ってもらう必要がなければ、一昨日、発っていた。
志穂を助け出したい思いで、矢も楯もたまらなかった。だが自分には、剣の腕はない。棒手裏剣なら、戦える。それに、つかみ合い、接近戦になったときの鉄輪も、自分なりに使える。
それで、一日、延ばさざるをえなかったのだ。
その一昨日というのは、追っ手たちにやられて意識を失っていた拓馬が、船橋北部の地蔵ヶ原の村娘、すみに助けられて一夜をともにし、仮住まいをしている佐倉の家、立花九八郎の屋敷の離れに戻った翌日だ。
佐倉に戻った夜、拓馬は九八郎の妻の鈴と娘の綾の二人を相手にめくるめく官能の一夜を過ごしたのだったが、鈴も綾も、拓馬との別れはそう遠くないと感づいているように、拓馬には思えた。
しかし、これほど早く別れを告げられるとは、二人とも思っていなかっただろう。作治に棒手裏剣と鉄輪を作ってもらっていた一昨日も、拓馬は子供たち相手の私塾を普通にやっていたからだ。
武家の子が十三人、町人の子が五人のかわいい教え子たちには、別れを告げなかった。
子供たちは、昨日、拓馬が佐倉を発ったあとで、塾として使っていた拓馬の間借りの部屋に行き、鈴か綾にその事実を聞かされたはずだ。そうするようにと、拓馬が頼んできたのだが。
鈴と綾に拓馬が暇乞いをしたのは、三人での朝餉を終えたときだった。
「突然、申し訳ありません。不義理は百も承知です。ですが、わたし、一旦、江戸に戻ります。その、必要が生じたのです」
拓馬は畳に両手をつき、二人に頭を下げた。
二人は驚いた表情を見せたが、すぐに、なるべくしてこうなったのだという諦めの顔を見せた。
「用件がすめば、またここに戻ってきます」
そう言いながら、拓馬は胸が苦しかった。
嘘になることが、わかりきっていたからだ。自分がここに戻ってくることになるのは、首尾よく志穂を助け出した暁のことだ。
しかしその場合、自分には志穂という、好き合った女が一緒にいる。自分との縁談が成ればいいと思っている綾の前に、志穂と手を取り合って現れることはできない。
「江戸に戻ることは、鈴殿と綾殿以外、誰にも言っていません。なおさんには、どうかよろしくお伝えください」
綾も交えて三人で肉悦に酔った、反物問屋成田屋佐倉店の娘、なおにと、拓馬は言づけた。成田の空き家で淫行を持った成田屋本家の娘、はつには、なおの口から伝えられるだろう。
かしこまって言う拓馬に、鈴と綾は、いくぶんなりと、顔つきをゆるめたように思えた。拓馬が、ほかの誰にも言っていないということでだろう。
しかし拓馬が心を痛めていたのは、酒々井の里の娘、くみに、何も言わないで去ることだった。
江戸から成田に来たときに早道(財布)をなくし、途方に暮れていたところを助けてくれたのが、くみと、その両親だった。
そのくみが、自分の初めての「女」となり、そして今、自分の子を宿している。しかし、自分が一番一緒になることができないのも、くみなのだった。
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