渡辺ひろ乃 令嬢アパート
目 次
プロローグ
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
エピローグ
(C)Hirono Watanabe
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プロローグ
初めは――ネズミかしら、くらいにしか思わなかったのです。
東京都多摩西部の旧家、築七十年以上の木造住宅では、ヤモリの姿を見ることもありましたし、浴室にはどこからともなくカタツムリが侵入していたこともありました。
夫が事故死してから四年。
ゴキブリは苦手なわたくしでも、小さな侵入者の訪問に、
「こんにちは」
などと声をかけ、歓迎してしまうこともありました。そんなとき自分が、もう長い間、どなたとも挨拶さえ交わしていないことに気づかされるのです。
母、父、夫、と住人が徐々に減り、わたくし一人きりになった家の屋根裏で、時折、物音がすることは、恐ろしいとか気味が悪いとかいうよりも、むしろ、ホッとするような気がしていました。
リフォームを重ね、内部の古めかしさはほとんど感じられない家とはいえ、旧家の天井裏は広いはずです。それに、美味しいキャベツには必ず虫がついているように、人が安心して住める家には小動物くらい寄ってきてもおかしくないと考えていました。
わたくしは、生まれてからずっと住んでいるあの家を愛していますから。
物音に最初に気づいたのはいつだったか、定かではありません。
確かに先生が前回おっしゃった通り、わたくしが一人でいるときよりも、どなたかとご一緒しているときの方が奇妙な音に聞こえます。
夫のことは……今でも信じられない気持ちです。遺体の損傷が激しいとのことで、わたくしは顔を見ることができなかったので、なおさら実感がないのです。
葬儀も済ませ、四年もの月日が流れているのですから、もう諦めなければならないことは分かっています。今のわたくしは仕事を持っており、たった一人でもこの古い家を守っていかなければなりません。
わたくしの仕事はアパート管理人です。
自宅の敷地内に父が遺してくれたアパート一棟があり、その管理をしています。経営そのものは管理会社に任せているのですが、退居者が出た場合のリフォームはわたくしの仕事になります。
リフォームといっても、わたくしが大工仕事を行うわけではありません。退居後の部屋を見て、修繕が必要な場所を確認し、リフォーム会社に工事を発注するのです。
部屋数は十四です。ワンルームと小さなキッチン、バス、トイレという間取りで、居住者の七割は独身男性です。入退居は、一年に三、四回程度でしょうか。
わたくしの仕事も年に三、四回ということになります。わたくしはこの仕事が嫌いではありません。いえ、むしろ楽しんでいる、と言ってもいいくらいです。
人にはそれぞれ匂いがあり、それが退居直後、空室の扉を開けると感じられます。
会ったこともない方、もしかしたら会釈くらいは交わしたことがある方。他人が生活していた空気を感じるのはなんだか懐かしいような……それに、とても想像力をかきたてられるのです。
空っぽの部屋にも、退居後まもなくだと雰囲気というものが残っています。
どんな方がここに暮らしていたのか。その方がわたくしと同じ庭を眺めて何を考えていたのか。その方が母屋を見て、大家はどんな人かと思っていたか。大家が女性であると知っていたかどうか。
そんな空想にふけっていると、毎日、一人、台所に立って自分が食べる分だけの料理をしていても全く苦にならないのです。
アパートにお住まいの方も皆、一人暮らし。手料理に飢えている男性も多いことでしょう。
わたくしのアパートで人生のある期間を過ごし、そして去っていく。そんな方々の人生の一ページにこのアパートが刻まれていく。そう考えると、一人きりの食事も、どなたかの帰宅を待ちながら食べているかのように温かく感じるのです。
アパートの室内には一見、フローリングに見えるクッションフロアという床材が貼ってあります。その床には重い家具を置くと凹み跡が残る場合があるのです。
たとえば、そんな跡を見て、
「ああ、この方は、ここにベッドを置いてらしたのだわ。いつも何時ごろ寝てらしたのかしら」
とか、
「この向きにテーブルと椅子の跡がある。ということはわたくしの住む母屋の窓を正面に食事をしてらしたのだわ。わたくしの姿が見えたこともあったかしら」
とか。まるで探偵気分です。
一人きりでする仕事はいくらでも時間をかけることもできるので、わたくしにとっては好都合でした。探偵になりきって空室の物語を紡いでいると気が紛れ、夫の不在を少しは忘れることができるのです。
そういえば、幼い頃から空想にふけったり、誰かの残り香を嗅いだりすることは好きでした。小学校では皆の靴箱が並ぶ玄関と屋外プールの更衣室がお気に入りの場所だったのです。
上履きのゴム臭と足の匂い。
帽子に染み付いたすえた頭皮の匂い。
消毒薬とカビの生えた木製すのこの匂い。
水着を脱いだときに拡散する蒸れた汗の匂い。
これらの匂いそのものが芳香だとは思っていません。けれど、鼻を刺すような、一瞬、くさい、と言ってしまう匂いには、中毒性があるのです。
くさい、でもまた嗅いでしまう。わざわざ嗅ぎに行く匂いではないのに、近づいてしまう、吸い込んでしまうのです。
それらは花や香水の匂いと違い、個々に特有のもので、同じものは二つとないのです。ですから自分の鼻を刺激する匂いに出会うことは一種の悦びでした。もちろん、こんなことは誰にも言えませんでしたが……。
遠い目をして淡々と語る由香利は、現状を嘆いているわけでもなく、正体不明の物音に怯えているわけでもない、ただ報告に来た、という印象だ。くぐもった低めの声は、物語を朗読しているように聞こえる。
艶のある長い黒髪に映える白肌は、薄蒼い血管を透かしている。
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