末廣 圭 翔ぶバイアグラ
目 次
第一章 未亡人・柴田早苗
第二章 居酒屋の娘・高嶋千秋
第三章 愛人志願・近藤真紀子
第四章 新入社員・山瀬浩子
(C)Kei Suehiro
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「野中さん、トイレはきれいに使って下さい。駅や公園の公衆便所じゃないんですからっ!」
朝っぱらから、社内で一番うるさい須田靖子のお咎めの声が、部屋の隅から飛んだきた。靖子は二十四歳ながら経理担当で、社内のお目付け役にもなっている。とびっきりの美人ではないが、はちきれそうな身体とその健康美溢れる小麦色の肌ツヤに、社員は誰も、そのお小言に反論できない。
「いや、それは失礼した。で、跳ね飛んでいましたか?」
「跳ね飛んでいるどころではありません。便器の横に水溜りができていました!」
野中耕平は、齢、五十四歳の馬齢を重ねている。四年ほど前に、それまで勤めていた某中堅出版社に、熨斗付けて退職届を出した。いま流行りのリストラでも肩叩きでもない。
ある日突然、出世欲丸出しの官僚組織然とするその会社にいることが、無性に悲しくなり飛び出したに過ぎない。
銭勘定しかできない、半分棺おけに足を突っ込んでいるようなモウロク社長に、社員は誰も反旗の狼煙を上げない。
出世の要諦はゴマスリのみで、出版事業という大義名分をポイと恥ずかしげもなくドブに捨て、ソロバンばかり弾いているような、そんなバカな会社に、大事な人生の最後を賭けることはないと考えたからだ。
それほどの勝算があった訳ではないが、浪人になった二カ月後に、耕平は出版社を興した。
神田・神保町に二十坪ほどのテナント・ビルを借り受け、社員も六名雇い入れた。半年ほど前に、若かりし頃の松坂慶子張りの美人アルバイトを雇って、現勢力は社長の耕平を入れれば、八名のこぢんまりとした部隊である。
だから、社員には「社長」とは呼ばせない。肩書きだけで人間の価値判断はしたくなかった。仕事は実力主義に徹している。社員には、「もし、社長と呼んだ場合は、一回に付き百円の減俸」と申し渡してある。
底の見える金庫と相談の上借りたその部屋は、オンボロ・ビルだという難点をのぞけば広さもそこそこで、実務にさしつかえる心配もないと考えていたが、悲しいかな、男の性でトイレにまで気がまわらなかった。
これまで、さしたる不平不満が出なかったから、ほったらかしにしておいたのが一挙に爆発してしまった様相である。
便器から飛び出してしまった小便が水溜りなんかなっていれば、ポッテリした尻を丸出しにして、座って用を足す女性にとっては不潔極まりないし、侘しい気分になってくる。
「せめて、女性用のトイレを作って下さい」
靖子は、それでも何となく気恥ずかしいのかデスクの上の伝票を見ながら、くぐもった声で訴えた。
「いや、考えないこともないが、新しくトイレを作るといったって、スペースもないしな……」
よく考えてみれば、そのたった一つのトイレは大も小も兼用で、女性軍は酒臭い男の用足しの後でも我慢しなければならない。
幾度か、もうちょいマシな部屋に引っ越したいと考えてはいたが、先立つもののことや、その引っ越し手続きを想像すると、おいそれ実現できるものではなかった。
「もう少し待っていて下さいな。何とかしますから……」
そのあたりの答弁になってくると、国会の予算委員会で共産党に噛み付かれる政府与党のジイ様大臣よりあやふやになってくる。
耕平の出版社は新書判の書籍と文庫本が主力である。何とかこの世知辛い不景気の中で持ちこたえているのは、一カ月に三冊から四冊出す文庫が好調で、社員に対する給料遅配もないし、耕平の女遊びの金もそこそこ捻出できている。
耕平にしてみれば、それで充分だし、第一、あの因業社長のご機嫌取りから解放されたことだけでもストレスがなくなった。
会社勤めしていた頃は、そのストレスが原因か、女の尻を追いかけてもいざベッド・インで中折れしてしまい、屈辱の夜を過ごしたことは何度もあった。
それが独立したその後は、オカメ顔負けのブスでも、練馬の農家が仰天する大根足でも、アナさえ空いていれば猪突猛進である。一夜に三回なんて二十代顔負けのタフネスぶりを発揮したりして、おおよそ五十路の半ばに達している男とはとても考えられない勇猛さなのだ。
女性のお相手もできなくなった男どもは、さっさと仕事のほうも現役引退なさったほうがよろしい。
それは、耕平の哲学でもある。
(これで、女性用の便所ができれば申し分ないのだが……)
なんて寂しい気分になりながら、耕平は傍らの安物ソファからジャケットをヒョイと持ち上げた。「もう少し待って下さいな」などと、その場凌ぎの言葉で取りつくろったはものの、そんな当てもないし、計画もない。
こんな場合は、敵前逃亡に限る。
今日のスケジュールは、午後に作家との打ち合わせが一件と、夜は新人作家の出版パーティがあるだけだ。寂しい日は女の柔肌が懐かしくなってくるのだが、いまのところその予定もない。
「それじゃあ、出かけます」
いきなり大声で靖子に断りを入れると、耕平はすたすたと逃げ足鋭く、会社のオンボロ・ドアをギシッと押した――。
第一章 未亡人・柴田早苗
1
そのパーティは、新人作家の出版パーティにしては眼を見張るほど豪勢で、盛大な催しだった。集まった客は三百人を優に越えている。それも、赤坂見附に聳える一流ホテルのパーティ会場を借り受け、立食ながら、食い物、飲み物はやたら豊富で、居並ぶコンパニオンは銀座や赤坂のクラブの女たちが、肌も露わなイブニング・ドレスや、かなり上物の和服で盛装し、にこやかに応対していた。
その女たちのうちの何人かは、見覚えのある顔だった。
もちろん、その書籍は耕平の経営する会社から出版したものではない。
おおよそ、新人作家の出版パーティというものは、その本人の景気付けと、仲間たちがお祝いを兼ねて行なうもので、会費だって一万円、二万円を徴収し、余った金は貧乏作家の懐うに入る仕組みになっている。
芥川賞、直木賞だのの『賞取りパーティ』ならいざ知らず、この不景気な世の中、単行本はまったくといっていいほど売れないから、大袈裟な出版パーティはすっかり影をひそめた。
一汁一菜に耐え、艱難辛苦の末に一年以上もの日数をかけ、やっとこさ書き上げた単行本でも、新人作家なら初版は八千部、一万部がせいぜいで、印税として作家の財布に入る金は百万円ちょぼちょぼなのだ。
月割りにすれば十万円にも満たない。生活費の上に取材費、資料代と積み重ねていけば、初版どまりなら大赤字で、一流ホテルで出版パーティをするなんて、とても考えられない。
しかも驚くことに、そのパーティは会費無料だった。一カ月ほど前に届いた単行本と招待状を見て、「これは何者だ!」と耕平は驚いた。
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