末廣 圭 フィリピンの女
目 次
第一章 資料室の秘め事
第二章 手相見の女
第三章 マニラの一夜
第四章 耳たぶの快感
第五章 ボホール島の桟橋
第六章 輝く砂浜
第七章 チョコレート・ヒル
第八章 セブ島の再会
第九章 ファッション・ショー
第十章 マスク・パンティ
第十一章 タップスの丘
第十二章 カメハメハ六世
第十三章 美ヶ原の温泉宿
著者後記
(C)Kei Suehiro
◎ご注意
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。
個人利用の目的以外での複製等の違法行為、もしくは第三者へ譲渡をしますと著作権法、その他関連法によって処罰されます。
第一章 資料室の秘め事
壁の時計が十一時半を指していた。澤村薫は鼻筋に重みを感じ始めてきた眼鏡を、ひったくるように取りはずし、デスクのゲラの上にぽーんと放り投げた。
眉間に、ぎりっとした鈍痛が走る。
背中が鉄板を張りつけられたように重い。椅子の背もたれに背中を預け大きく背伸びをする。背骨の関節が油切れにでもなったようにぎしぎし軋んだ。
背骨は正確には脊柱と呼ばれるそうだが、頸椎から尾骨に繋がる二十六個の骨がてんでんばらばらになって我儘放題を言い合っている……そんな気分なのだ。
それは毎度のことながら、校了日数日間の苦痛でもあった。
まだ四十四歳の若さなのに、職業病とも思える老眼もその兆しがみえている。
小さな活字を見ると、文字が滲んだり、二重になったりして、どうしても眼鏡のお世話にならなければならない。
眼の奥がじーんと沁みるように痛い。
もう六時間近くデスクにしがみつき、背中を丸めてゲラを読み続けていた。編集長なんていう職業は、世間サマには聞こえよく響くが結構な重労働である。神経、肉体は時にぼろぼろになる。
見渡せば編集部に人影はない。毎月、月末の一週間ほどは入稿、校了で作業は深夜に及ぶ。
ゲラのチェックと言っても、今さら文章を大幅に手直しする時間はない。一つ、二つ見落としてしまう誤字、脱字にも眼を瞑る。
問題は名誉毀損を主目的とする「告訴沙汰」になりそうな部分の再点検である。それには最大限の注意をはらう。雑誌編集の上で、いちばん厄介な点でもあった。
万が一にも裁判となり負け戦となれば、雑誌の信用は失墜する。賠償金や訂正広告なんか出す羽目となれば、社会的責任を問われる。
今の時代、塀の中からでも大手を振って訴状が舞い込み、版元は慌てふためく。
「何をご冗談を! あなたは何サマですか? お縄をもらっているんでしょう!」と怒鳴ったところで、法の元には人間すべて平等、人権に塀の中も外も関係はありませんと開き直られれば、四百ページもある『飛鳥』の一行一句に、眼を皿にしなければならない。
「差別用語」に値する禁句だって、時に古来の日本語を蹂躙するようなものがあるとさえ考える。しかし二十一世紀になってしまえば、蘊蓄深く、そして味わいある懐かしい日本語は化石となり、活字文化からはお払い箱となっている。
それも世の流れ、むべなるかな、である。
澤村が編集長の大役を担っている男性総合月刊誌『飛鳥』は、その発行部数、ほぼ七万部。
「ほぼ」と、あえて注釈つけるのは、特集の内容によって発行部数にかなりの幅があるからだ。
極秘情報や特ダネとも思える有名人のインタビュー、手記などが掲載された号は、一万部も増えることがある。
逆にたいしたネタも入っていなければ、この数年すっかり「実力」を具えつけてしまっている販売部のサジ加減ひとつで、三千部も減らされる。
総じて出版社は編集部より販売部が主導権を握る悲しいご時世になっている。編集部がこれは名企画と考えたって、販売担当役員の腹の虫の居所悪ければ、どさっと部数は削られてしまう。
泣く泣く「仰せ通り」と折れるより仕方がない。これも社会の流れである。「恐れ多くも……」と楯突いたところで、疲れるのは編集部である。
会社には目安箱なんかありゃしない。
机上の計算だけに頼る販売部の「豪腕」にはかなわないのだ。
『飛鳥』は実売七十パーセントを最低目標としているが、このところの景気低迷は雑誌の売れ行きにも大きく響き、六十パーセント台前半をうろつくことしばしばだった。
そうなれば『飛鳥』の収支決算は当然赤字となり、怖い役員サマの雷が落ちるという図式になる。どちらにしても、重労働の割りには合わない仕事なのだ。
これでもしや、優しく労ってくれる美しい女性軍がいなければ、華厳の滝どころかナイヤガラの滝壺にはどんな怪魚がひそんでいるのだろうかと、身を投げ出したくなる。
『飛鳥』は毎月十日、書店に並ぶ。同じ日、その名を天下に轟かせる『B』誌が発売される。その部数は『飛鳥』の約十倍である。
たとえお天道サマが西の空から昇ったとしても、この妖怪のような雑誌にはとても太刀打ちできない。
最新鋭のミサイルに火縄銃で交戦しているような切なさを感じるが、火縄銃だってたまさか命中すれば敵陣に甚大な被害を与えることもあると、その古ぼけた銃身をぐっとかかえ込み、狙いを定めている。
編集屋としての、熱意、根性だけはどちらサマにも負けたくない。
……編集スタッフ八名は、女性社員の芹沢千尋を除いてすでに夜の巷に消え失せていた。最終校了日は編集長の澤村がゲラのチェックを終えれば、それを印刷所に渡すだけの作業である。
印刷所との連絡と進行係を務めている千尋にとっては重要な仕事だし、デートの約束をキャンセルしたって深夜残業は致し方ない数日間なのだ。
澤村は、最後のひとふんばりと、もう一度背骨をぴーんと張り伸ばし眼鏡を拾った。
その時……。
しーんと静まり返る廊下から、コツコツと忍ぶような足音が響いた。音もなくドアが開いた。口に咥えていた煙草を灰皿に揉み消し、澤村は靴音を振り返った。
千尋が小さな笑窪を作って入ってきた。
建て替えられたばかりのビルは編集部内禁煙のもっともらしいおふれが出ているが、深夜作業の折りは遠慮いらない。
小火が出たかと思うほど、煙は部屋じゅうに充満しているはずだった。
「終わりましたか……?」
なんとなく甘ったるい千尋の声を、物音ひとつしない編集部の白い壁が飲み込んでしまっている。千尋は自分のデスクにも戻らず、おどけた仕草で近づいた。
甘酸っぱい体臭と一緒に、その細い身体がゲラの束を覗き込み、澤村の肩にふれるほど傾く。
「もう少しだな。後三十分ほど」
見れば千尋の手に小さなビニール袋がぶら下がっていた。
「お疲れでしょ。夜食を買ってきました。食べるでしょ?」
長い髪がやや乱暴に頭の後ろにひっつめられ、化粧もほとんど落ちてしまった小さな顔が青白く薫んでいる。やや落ち窪んでいる眸に、疲労の色がありありと浮いているのに、唇だけが赤くつややかに濡れていた。
「それは気をきかせてくれたな。腹ペコだったところだよ」
「顔に書いてありましたよ。何か買ってこいと……。こんな時間ですからコンビニのおにぎりしかありませんけれど、我慢して下さい。すぐ熱いコーヒーを淹れますから」
千尋とはつい一カ月ほど前、行きがかり上、鏡張りの部屋に忍び込んだ関係になっている。恋人は数人いるようだが、澤村の剛根に二十八歳にして初めて女の悦びを味わい、その胸の下で露わな素肌を震わせ、快楽の悲鳴を突き上がらせていた。
|