末廣 圭 華匂うとき
目 次
第一章 倒れていたおばさん
第二章 指圧の果てに
第三章 歓喜の爆発
第四章 病は気から
第五章 思いがけない出来事
第六章 蘇ったとき
第七章 一カ月ぶりのときめき
第八章 華の匂い
(C)Kei Suehiro
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第一章 倒れていたおばさん
日曜日だというのに、電車は混んでいる。家族連れが多い。お父さんやお母さんに手を握られて、とても愉しそうに話している子供の姿を見ていると、何となくうらやましくなってくる。
一週間ほど前、速水百会は思いきって父親におねだりをした。新しいパソコンを買ってほしい……、と。家には一台、ずいぶん古めかしいノート型のパソコンはあるが、父親の専用になっていた。患者さんのカルテが保存されていて、無断で使うことを堅く禁止されていた。
友だちのほとんどは、自分専用のパソコンを持っている。新しいパソコンを買って、何に使うかなど決まっていない。でも、パソコンの前に座って、器用にキーを叩く友だちが、何となくかっこよく見えた。
毎月の小遣いや正月のお年玉を貯めていた。幾らになったか勘定したら、四万八千円あった。しかし新しいパソコンを買うには、とても足らない金額だった。
恐る恐る、父親のご機嫌を窺いながらおねだりをしたら、秋葉原にでも行って、見てくればいいじゃないか。百会がほしいと思う機種を選んできなさい。パパが休みの日に、一緒に行って買ってあげるよ……。気味が悪いほど父親は優しく言ってくれた。
でも、その瞬間、百会は半分あきらめた。父親の休日は一カ月にたった一度で、その日は一日中寝ている。蓄積された疲労を取ることと、明日からふたたび始まる仕事に備えて英気を養っていて、息子の相手をしてくれたことがない。
父親と一緒にパソコンを買いに行くことは半ばあきらめても、どんなパソコンがあるのか、見たいと思った。
友だちと二人で秋葉原の電気街に出かけた。目を見張った。何百台……、いや何千台と並んでいるパソコンの山を見て、だ。この中から一台を見つけるなんて、とても無理だと思った。
それに想像していたより、ずっと高かった。二十万円、三十万円……。どんなに安くても十二、三万円はした。
(パパが買ってくれるはずがないよ)
そう思いながらも、ずらりと並んだ電気屋さんを次々と見てまわっているうちに、あっという間に半日がすぎていた。
半分以上はあきらめて、帰りの電車に乗った途端、急にお腹が減った。友だちは新浦安駅の一つ手前の駅で降りた。一人ぼっちになって、なおさらお腹が減った上に、まわりが愉しそうな家族連ればかりで気が滅入った。
二十万円のパソコンを買ってくださいなんて言ったら、パパは何て答えるだろうか……。額に汗をし、一時間たっぷり治療をして、パパがもらう治療代は確か五千円だった。四十人分じゃないか……。
そんなのとっても無理だと、百会はいくらか悲しくなった。
電車が停まった。人の波に押されてプラットホームに降りた。パソコンは無理そうだから、今夜はママに頼んで、ステーキを焼いてもらおうっと……。そう思いなおし、百会は改札口に向かった。
階段を降りようとして、ふっと足が止まった。さっきから目の端に入っていた。プラットホームのベンチに座っている女の人が。
同じ電車に乗っていた人ではない。だからといって、上りの電車を待っているふうでもなかった。背中を丸めて、膝の上に組んだ指先を一生懸命揉んでいる。
誰かを待っているのだったら視線は動くはずなのに、その様子もない。
(具合が悪いんだろうか……)
階段を降りかけた百会の足は、人の波を分けて逆戻りした。
「躯の具合が悪いんですか」
勇気を奮い起こして尋ねた。
女の人の顔がとても辛そうに向いてきた。ギョッとした。顔色が真っ青だったから。それに額には汗を滲ませている。冬の季節はすぎているが、汗をかくほど暑くはない。
声もなく女の人は顔を伏せた。
(どうしようか……?)
胸騒ぎを覚えた。風邪を引いて高熱が出て、立ちあがれないほど苦しいのか、それともお腹が痛いのか。
「駅員さんを呼びましょうか」
ぼくの声に女の人は、力なく顔を横に振った。これほど辛そうにしている人を、ほったらかしにするわけにもいかない。仕方なく横に腰を降ろして様子を窺った。
電車を降りた人がすべて階段を降りていったとき、上りの電車が轟音を響かせてプラットホームに滑りこんできた。やっぱり女の人は立ちあがろうとしない。
(えっ……!)
異変に気付いた。自分の右手で揉んでいる女の人の左の指先が、握り拳を作って硬直しているように見えたから。
「おばさん……」
声をかけたとき、ぼくは夢中で女の人の左手を拾っていた。ほかの人に見られたって構わない。おばさんはほんとうに苦しそうなのだから。ほっそりとした指先は、握り拳を作ったまま硬く凝り固まっていた。
手を振りほどこうともしないで、女の人は左手を預けてきた。両手で挟んだ。指先は氷のように冷たいし、じっとり汗ばんでいる。
何かにおびえているみたいだ。
変に揉むより、しばらく握ってあげていたほうがいいと思った。
呼吸の荒いことを、そのときになって気付いた。若草色の上着の胸元を、わざと弾ませるようにして呼吸をしているのだ。
「ありがとう……」
おばさんは初めて言葉を吐いた。それは弱々しい声で。
「あの、ぼくは浦安市の美浜に住んでいる速水百会って言います。中学生ですから、安心してください」
「ひゃく、え……、さん?」
おばさんの視線がちらりと向きあがってきた。
「ええ、はい。へんてこりんな名前でしょう。一、百、千の百に会議の会って書いて、ひゃくえって読むんです。パパが付けてくれたらしいんですが、友だちはひゃくとかひゃっかいとか言って、まともに呼んでくれたことがないんです。どこかの国のお坊さんみたいな名前で、変なんです」
「いいえ、ちっとも変じゃないわ。百会さんに百回お会いしたら、願い事が叶うのかもしれないでしょう」
(よかった……)
くだらない話をしていたら、おばさんの言葉がだんだんスムーズに出てくるようになった。でも、顔色はまだ悪い。
「あの、おばさんはどちらに行かれるんですか。まだ具合が悪そうですから、電車には乗らないほうがいいと思います」
「ごめんなさいね、見ず知らずのあなたに心配をかけてしまって」
「いえ、そんなこと、気にしないでください」
「わたしの家は、富岡なの」
「えっ、それじゃ、美浜の隣じゃないですか」
「そうなの。百会さんの乗ってきた電車の二本前の電車で、東京から帰ってきたんですけれどね、電車の中で急に息苦しくなって……」
「救急車を呼びましょうか。息苦しいんじゃ、心臓が悪いのかもしれないでしょう」
「いいの、ありがとう。少し落ちついてきたようですから、歩いてお家に帰れそうよ」
そんな無茶をしたら、だめです……。そう忠告したくなった。富岡のどこにおばさんの家があるのか知らないが、十分や十五分くらいかかりそうだし、だいいち改札口まで、階段を降りなければならない。
では、さようなら……、と言いにくくなった。階段を降りている最中に息苦しくなったら、転げ落ちてしまうかもしれない。
「分かりました。ぼく、おばさんの家まで送っていきます。ぼく、まだ中学校の二年ですけれど、身長は百六十八センチあって、体重は五十五キロありますから、おばさんがまた苦しくなったら、おぶってあげますから、心配しないでください」
あんなに辛そうだったおばさんの目に、嬉しそうな和みが浮いた。青白かった頬っぺたも、心なしか赤く染まってくる。
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