北山悦史 疼き水〜薬師硯杖淫香帖〜
目 次
第一章 疼き女中
第二章 蜜襞女掏摸
第三章 淫乱母娘丼
第四章 武家妻手習師匠
第五章 芳香夢枕
(C)Etsushi Kitayama
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第一章 疼き女中
一
シュルシュルシュル――。
ドーン!
ドドーン!
「玉屋ーっ!」
「鍵屋ーっ!」
大歓声とどよめきが、見物人で鈴なりの橋を揺るがす。
五月二十八日。曇り空の宵。大川の川開き。
両国橋上流に玉屋の花火舟、下流に鍵屋の花火舟。上下流にひしめき合う涼み舟。
(何度見ても見事なものだな)
橋を埋め尽くす人の波に揉まれながら、硯杖は夜空を彩る花火を愛でていた。
嗅覚は封じている。
そうでもしなければ数百人の体臭が鼻腔になだれ込んできて、頭が痛くなる。
人の感覚というものは不思議なもので、犬に勝るとも思われる我が鼻だが、「感じまい」と思えば感じなくなる。
しかし嗅覚を封じていても、求める人の匂いまで拒むことはない。
むしろ逆で、他の匂いを受けつけないようにしているから、かえって求める人の匂いには敏感になっているとも言える。
亡き雪乃が放っていた天上の芳香に匹敵する香りを有する女には、まだ出会っていない。だが、出会いはすぐ目の前にありそうにも思う。
少なくとも十日前とは事情が違う。その女性が江戸市中か近郊にいそうだと、具体的なことがわかったからだ。
(もしかしたら、この夏の間にでも、その人と会うことができるのではないか)
思わず顔が緩んでしまった。硯杖はハッとしたが、周りの群衆は皆、夜空を見上げていて、人の顔など見てはいない。
硯杖は人知れずほくそ笑みながら、着物の胸を撫でた。手がかりはここにある。
しかし、懐は平らだった。おやと思いながら、硯杖は懐に手を入れた。
財布がない。
(嘘だ!)
硯杖は焦って懐に両手を入れた。
ない。
足元も調べた。見当たらない。
(どこかに落としたのか。巾着切りか)
取り返しのつかないことになったと、顔から血の気が引いた。
金より大事なものが入っている財布を落とすはずがない。いつも気をつけているのだ。ならば掏摸か。
硯杖は顔を落とし、鼻の封じを解いて懐の匂いを嗅いだ。
若い女の匂いがした。まだ新しい。
(女掏摸か)
つい先ほどのことを硯杖は思い返した。
茶色の犬が、人に踏まれたり蹴られたりしそうになりながら尻尾を巻いて硯杖の前に来て、左後ろに行った。
硯杖は、犬も自分と同じように鼻に蓋をしているだろうかと考えた。そうでもしなければ、臭くて堪らないだろうと。
シュルシュルシュル……。
その時、花火が打ち上げられた。
ドドーン。
「玉屋ーっ!」
「鍵屋ーっ!」
大歓声が轟いた時、女が押されてきた。
押しつ押されつは間断なくあるので、大輪の花火を見上げながら硯杖は気にも留めなかった。
硯杖の右二の腕に触ったのは、女の左二の腕だったはずだ。
だが、その女が掏摸だったとすれば、自分の左腋の下から右手を伸ばして硯杖の懐に忍ばせ、財布を抜き取ったのだろう。一瞬のうちに。
(あの女は、あれからどうしたか)
硯杖の後ろに滑るようにして行ったような気がする。
(迂闊だった……)
唇を噛み締めて、硯杖は左後ろを見やった。
それらしき女はいない。人の財布を抜き取ったのであれば、そこいら辺にいるわけもなかった。
(せっかく拾った宝物だというのに。どうすればいいのだ)
悔しさと落胆とで硯杖は歯噛みした。顔が上気し頭に血が上っているのが、目に見えるようにわかる。
財布に入れていたのは、三年前に他界した雪乃と同じ香気を放つ一本の秘毛だった。後生大事に懐紙に包み、お守りとも、“雪乃”探しの道しるべともしていたのだった。
一生の宝物と思っていたものを手にした経緯は、こうだ。
十日ほど前、硯杖は竹籠を背負って出かけ、亀戸村・小梅村・押上村にわたる丘陵地で薬草や木の実の採取をしていた。
消化薬としても滋養強壮の薬としても使う杓。
痛み止めとして使う藪人参。
滋養強壮、卒中予防に使う明日葉。
胃薬、下痢止め、湿疼、止血薬として使う蓬。
婦人病、卒中予防に使う紅花。
滋養強壮薬、精神安定薬、不眠薬として使う棗の実。
腹痛、下痢止めとして使う槿の皮。
滋養強壮薬、心臓病薬として使う拘杞の葉と実。
なだらかな傾斜の草地に屈んでそういったものを集めている時、ふと、かぐわしい香りを嗅いだように思って手を止めた。
閃いたというか、頭にピンと来た感じだった。植物の匂いではなかった。硯杖は嗅覚を鋭くしながら体を起こした。
(ん?)
硯杖は首を傾げた。匂いが希薄になったのだ。出所は下かと思い、再び体を屈めた。
匂いは右の鼻の穴に強く感じられた。近くにふたかかえぐらいの幹の楠がある。その右向こうから、芳香は漂ってきているようだった。
(何の匂いだ? 人間の女のもののようだが)
硯杖はそちらに回っていった。
今いたところは斜面だったが、楠の右側は平らになっていて、枯れ葉や枯れ草から、緑々した夏草が生え茂っている。
匂いは濃厚になっていた。一万人の人間の誰も感知しない程度の薄さだが、硯杖にとってはまるでそこに裸の女がいるような濃さだった。
そして驚くべきことに、匂いは忘れもしない雪乃が放っていた媚香にそっくりだった。
(信じられぬ。どういうことなのだ。雪乃さんが天つ国からここに降りてきて、草を褥にまどろんでいたか)
硯杖は媚香にいざなわれて発生源に顔を近づけていった。
匂いの元は点になった。二尺ほどの高さの小糠草が広く生えている根本に、身の丈五寸の雀の帷子が数株、健気に茂っている。昨年の枯れ草を押しのけて、四寸に満たない葉が八方に伸びている。その葉の未申の方角に覗き見えている枯れ草が、芳香の出所なのだった。
(何故こんなところが)
雀の帷子の茎と葉を掻き分けて根本に鼻を寄せ、硯杖はあっと叫びそうになった。
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