末廣 圭 移り香
目 次
第一章 十六歳の初体験
第二章 消えたおばさん
第三章 男の快感
第四章 初心なアイドル
第五章 潤んだ秘密の扉
第六章 恩師との出会い
第七章 童貞喪失
第八章 感涙の交わり
(C)Kei Suehiro
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第一章 十六歳の初体験
あら、早かったのね……。玄関のドアを開けてくれたママが、ちょっとびっくりしたような声で言った。
「お腹が減っちゃったんだよ」
ぼくはウソでごまかした。
「サンドイッチでも作ってあげましょうか。お夕飯まで、まだ時間があるでしょう」
「おばさんが来ているの?」
「えっ、どうして分かったの?」
「うん、何となく、さ」
ママとは違うほのかな香りが、玄関先にこもっている。その香りが、おばさんの匂いだということは、すぐに分かった。
「あのね、美樹ったら、喧嘩をしたんですって、ボーイフレンドと。さっきからめそめそしているから、慰めてあげなさい。直人とは仲がいいでしょう」
何となくむしゃくしゃしていた気分が、すーっと和んでいった。
ラバーシューズを脱ぎ捨てて、小宮直人はリビングルームに駈けこんでいた。窓際に置かれているソファに、背中を丸めてしょんぼり座っていたおばさんが、びくっと顔を上げた。
(あれっ、ほんとうだ。泣いているみたいだ)
目を潤ませている。
ぼくを見上げてきたおばさんは、慌てふためいて手にしていたハンカチで目尻を拭った。おばさんの涙顔を見たのは初めてのことだった。
いつもはおばさんと呼んでいるけれど、子供みたいな泣きべそ顔を見ていると、ずいぶん歳の離れたおばさんなんて思えない。
「お腹でも痛いんですか」
ぼくはできるだけ朗らかな声で言い、庭につづくサッシを開けた。秋の匂いを感じさせる爽やかな風が、どこか湿っぽい部屋の中に吹きこんでくる。
「いいわね、直人君は……、いつも元気で」
ぼくを目で追いながら、おばさんは鼻をすすって言った。
美樹おばさんは、確か三十一歳になったはずだ。ママは五人姉弟の長女で、おばさんは一番下だった。四十二歳になるママのことを母親と勘違いしているところもあって、しょっちゅうぼくの家に遊びに来る。
「それほど元気じゃないんだ」
ほんとうのことを言った。
「高校生になったら、勉強が忙しくなったとか……?」
「勉強なんか、大したことないさ。中学のときと、あんまり変わらないもん」
「それじゃ、お友だちと喧嘩でもしたの?」
「うん、まあね。変なことを言う奴がいっぱいいるんだ」
適当に相槌を打ちながら、ぼくはおばさんの前のソファに座った。
少し太りはじめたママに比べて、おばさんはほっそりとした躯だった。三十歳を越えたというのに、結婚もしないで遊んでばかりいる。美樹はいつになったら落ちついてくれるのかしらね……。ママはほんとうの母親になったつもりで、ときどき愚痴っていた。
結婚なんかしてほしくないな……。ママの愚痴を耳にするたび、ぼくはお腹の中で反論した。なぜなら、ぼくにとってのおばさんは、憧れの女性のようなところもあったから。
何でも話ができるお姉さんのような感覚もあって……。結婚をしたらご主人のことばかりに目がいって、この家にも遊びに来てくれないかもしれないという不安とか、寂しさもあった。
「変なことって、どういうこと……?」
涙の乾ききっていない目を、まぶしそうに向けてくる。そんな表情を追っていると、ぼくとそれほど歳の変わらない女子大生のような感じもしてくるのだ。
「同じクラスにね、坪井千草っていう生意気な女の子がいるんだ」
「高校の一年生でしょう」
「うん。クラスのアイドルなんだ。悔しいけれど、ぼくより成績は上でさ……。でもさ、大人ぶっているところが気に食わないんだよな。今日も、ちょっと注意をしてやったら、頬っぺたを真っ赤にして、小宮君みたいなチビは嫌いよって、言い返してきたんだ。チビって、差別用語だよね」
「直人君はそんなに小さいほうじゃないでしょう」
「百六十センチちょうどだよ。ぼくより二、三センチ低い友だちは、何人かいるもの」
「ねっ、それで、何を注意してあげたの?」
興味深そうにおばさんは、半身を乗り出した。淡いブルーのブラウスが、風に吹かれたように揺れた。
一番上のボタンをはずしたブラウスの襟元から、おばさんの体臭が漂ってきたような感じがした。
三十一歳になっても、おばさんの躯から香水の匂いを嗅いだことはない。玄関に入るなり、おばさんの匂いを感じたから、ぼくはママに聞いたのだった、おばさんが来ているのか、って……。
人間の体臭は人様々だ。
ぼくは最近になって気付いたことがある。人の匂いとは、目に見えないもう一枚の衣ではないか。だから自分の匂いに自信のない人は、香水とかコロンをつけて、他人の目をくらましているのではないか、と。
おばさんはそんな余計な洋服を着る必要がないのだ。
「授業が終わってから、校門で千草とすれ違ったとき、あいつ、香水の匂いをぷんぷんさせていたから、臭いぞって、言ってやったんだ。高校の一年なのに、香水をつけているなんておかしいもん」
聞き耳を立てていたおばさんは、急に大人の顔に戻って肯いた。そして肩に流れる長い髪を指先ですき上げた。柔らかそうな髪は真っ黒だ。
そうだ……、千草の奴、まだ十六歳のくせをして、ブラウンがかった色に髪を染めていた。制服のスカートも、みんなより短めに仕立てなおしているみたいだった。でも、わりと似合っていたから、文句が言えなかった。
少しくらい自分の体型に目を向けろよ……、そう言いたくなるようなデブデブの足が並んでいる中で、千草の足はすらりとして長かった。
「分かったわ。直人君は、その坪井さんのことが好きなんでしょう」
ついさっきまで涙を溜めていた瞳をキラキラッと輝かせて、おばさんはニコッと微笑んだ。
(冗談じゃないよ!)
みんなにちやほやされている奴なんか、大嫌いなんだ。
「ぼくのことを、チビだって言ったんだよ。そんな子のこと、何でぼくが好きにならないといけないの」
「片想いなのよ」
「えっ、片想いって、ぼくが勝手に彼女のことを好きになっているって言うこと?」
「わたしはそう思うわ。直人君は十六歳でしょう。思春期の入口なのね。女性にも興味が出てくる年齢で……。そうよ、きっとそうよ。わたしも高校に進学したとき、好きな男性ができたんですもの」
「おばさんの片想いだったんですか」
「わたしはね、高校に入ってテニス部に入部したの。そう……、思い出したわ。彼は二年先輩のテニス部のキャプテンで、すごく背が高くて、真っ黒に日焼けをして、精悍だったのね」
ぼくは急に落ちこんだ。ぼくはチビだと蔑まれて腹を立てていたのに、すごく背の高いキャプテンのことなんか、持ち出さなくてもいいのに、と。
ということは、おばさんも背の高い男が好きであって、ぼくみたいなチビには目も向けてくれていないのだ。
(でも、しょうがないか……)
おばさんはママの妹で、ぼくが好きになること自体が間違っているのだから。
「それで、その背の高いキャプテンとはどうなったんですか」
半分不貞腐れて、尋ねた。
「聞きたい……?」
「おばさんの初恋だったんでしょう」
「そうね、そうだったかもしれない。彼のことを、いやな男性だと思っていたから。ちょっと生意気で、自分はいい男だと思っているところが嫌味だったの」
「そんなの変だよ。嫌味な先輩だったんでしょう」
「いけ好かないなーって……」
大人の女の人の言うことは、よく分からない。嫌味な男だったら、知らん顔をしていればいいじゃないか。初恋の対象になること自体がおかしい。
遠い昔を思い出すように、おばさんはふっと天井を見上げた。あっ……。ぼくは思わず小さな声をあげかけた。
ソファにゆっくり背中を預けたおばさんが、白いスカートの裾を翻して足を組んだからだ。ベージュのストッキングに包まれた太腿の裏側が、ずいぶん奥まで開けた。
ぼくは慌てて目を背けた。
見てはならないものを見てしまったようで。
「そんなの、初恋じゃないでしょう」
聞いた声がいくらか上ずった。
いつまでも足を組んでいないで、元に戻してほしい。千草にチビだと揶揄されても、ぼくも男だ。女の人のスカートの中がどうなっているのか、興味はある。しかも目の前に座るおばさんは憧れの女性だった。
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