末廣 圭 華の舞い
目 次
第1章 カメラマンの死
第2章 熟女のアクメ
第3章 鳥肌の立つキス
第4章 二十二歳の艶
第5章 若女将の告白
第6章 女の夜這い
第7章 活花教室の白いシクラメン
第8章 ラブホテル処女
第9章 ふたたび角館へ
(C)Kei Suehiro
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第1章 カメラマンの死
水割りのグラスを口に運びながら、店の中をぼんやり眺めた。カウンター席はほぼ満席で、あちこちから聞こえる酔客の濁声がうるさい。
(不景気だったころが懐かしいもんだ)
わずかな苛立ちを覚えながら萩原洋介は、グラスの底に残ったスコッチを、氷ごと口の中に放りこんだ。
銀座のはずれにあるカウンター・バー『やよい』に通うようになって、十年近く経っているはずだった。
つい一年半ほど前、『やよい』は店仕舞いの危機にさらされた。平成不況の煽りを食って、一夜の客は二人、三人となり、ママは店を投げ出そうと覚悟したらしい。
盛況だったころは六人、七人の女の子を雇っていたが、給料を払うこともできず、店の切り盛りはママと、遠縁に当たる女が一人という、最悪の状況におかれた。
俺が顔を出しているうちは、看板をはずさないでくれよ……。暇を持て余し、オンザロックのウイスキーをガブ呑みするママに、洋介は何度も励ましの言葉を送った。
呑みに行く店が、ほかになかったわけではない。客足の途絶えた『やよい』の、うらぶれた雰囲気が疲れた躯を癒してくれたし、酔っ払っていないときのママの、どこか男を魅きつけるほっそりした容姿を見捨てるわけにはいかなかった。
自棄酒ならぬ自棄ベッドに雪崩れこんだことが、二度あった。ママの確かな年齢を聞いたことはなかった。四十を境にして、一つか二つ前後する歳と見ていたが、男の肉に溺れたというより、日頃の憂さを一気に晴らすような躯のうねりをぶつけてきた。
(それが、どうだ……)
満面に笑みを作るママは、俺のことなどすっかり忘れたふうにカウンターの中を飛びまわり、ときおり、こちらが赤面してしまうほどの嬌声を張りあげる。
カウンターに座ってから三十分近く経っているのに、知らんぷりだ。
それなりのスポンサーが付いていたのかどうかも、知らない。閑古鳥さえ逃げかけていた店に、渡り鳥の如く舞い戻ってきた客の餌付けに忙しいのだから、二人でひっそり冬眠をしていた仲間としては、やや恨めしいのだ。
(帰るか……)
騒然とし、繁盛している店に用はない。
勘定をしてもらおうと、手を上げた。
艶やかな緋色のワンピースを着ていたママが、びくっと振り向いてきた。そして小走りに近寄ってきて、いきなり指先をつかんできた。
「だめ、帰らないで」
満面に浮かべていた商売用の笑みを掻き消し、ママは小声で訴えた。
「今夜も忙しそうだから、俺は邪魔なだけだろう」
洋介はひがみっぽく応えた。
握られた指先に、力が加えられた。
「あなたに話があるのよ、ですから、看板まで待ってて。ね、お願い」
媚びを売っているのではない。何かに怯えているようで、真っ赤なルージュを塗った唇を、かすかに震わせる。
「看板までって、まだ一時間以上あるぜ」
「小森さんが亡くなったこと、知っているでしょう」
「えっ、小森さんて……?」
「カメラマンの小森さんよ」
さっさと帰ろうとしていた腰が、椅子に叩き戻された。血の気が引いていく。ざわざわっと背中に寒気が走った。
「あいつ、三日前に、撮影で東北に行くと連絡してきたんだよ。帰ってきたら写真を見てくれって、張りきっていたのに」
「そんなこと、どうでもいいの。わたし、怖いの。ですから、看板まで呑んでて。帰ったら怒りますからね」
唇の震えが指先まで広がっていた。
言うだけ言って、振り返り振り返りほかの客の席に戻っていったママの姿を、洋介はぼんやり追った……。
萩原洋介は四十九歳になる。
東京の私大を二十七年前に卒業した。在学中から編集者に憧れた。一流出版社に入社して、編集長になるのが夢だった。が、世間はそれほど甘くなかった。いくつかの大手出版社の入社試験を受けたが、すべて落ちた。
最後に引っかかったのが、神田にある『明文社』だった。社員数三十余名の弱小出版社だったが、レジャー関係の月刊誌を地道に発行していた。
入社してから二十七年間、洋介は日本の各地を訪ね歩く『憩の旅』シリーズの編集に携わった。
七年前に編集長に昇格した。
編集長と肩書きは立派だが、スタッフは洋介を含めて三人という、黄昏編集部だった。
しかし居心地が悪かったわけではない。仕事の段取りは編集長権限でいっさいを任され、企画などに社長や役員が口出ししてくることもなかった。
わずかながらも利益を上げ、会社に貢献していることを認められていたからだろう。
三十二歳のときに結婚した静江との生活も、波風立たず、平々凡々とつづいている。子供に恵まれなかったことが幸いだった。今年四十歳を迎えた妻はテニスにのめり込み、亭主の日常生活に細かな注意を向けなくなっていた。
お互いの自由を尊重する、言わば理想的な中年夫婦の関係が成立している……。
(何かの間違いだろう)
小森賢一の死を、にわかに信じることができない。
小森との付き合いは三年ほど前からになる。日本各地の風景や風習、寺社仏閣、さらには鄙びた温泉、名産品、名物の食品などをどこからともなく探し出して、フィルムに納めてきた。
飾り気のないカメラアングルが特徴で、『憩の旅』では欠かせないカメラマンになっていた。
雪の残っている八甲田山に登ってみようと思っているんです……。三日前に連絡を入れてきたとき、小森はいつもと変わらない朗らかな笑いを混ぜて言った。
歳は三十一か二になっているはずだったが、年がら年中、地方の撮影に飛びまわっているせいか独身で通していた。
(事故死だろうか……)
ふと、洋介は考えた。
身体は頑健そのものだった。旅先で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となったとは考えにくい。
どこで死亡したのか、ママから聞いていなかった。死亡日時もはっきりしていない。確かなことは三日前の午前中……、すなわち洋介が電話を受けたそのときまでは、生存していたことになる。
もう一つ解せないのは、小森の死をママがなぜ知っていたかだ。
撮影の打ち合わせと称し、何度か『やよい』で呑んだことはある。アルコールが入ると声がでかくなり、スポーツ刈りにした短い髪をしきりに掻く癖があった。
ママや店で働く女と、懇ろになった様子もなかった。男の欲望をどこで発散しているのだろうかと、こちらが気をまわしてしまうほど女性には興味の目を向けないで、カメラの話に熱中する男だった。
(うんっ!)
ふいに不穏な思いにかられた。
わたし、怖いの……。俺の手をしっかり握りしめ、ママは確かにそう言った。
(何が怖いのだ?)
自分の知らないところで小森とママは、特別な関係に陥っていた……。そうでなければ、あれほど気丈な女性が怯えるわけがない。
カウンターの中で飛びまわる緋色のワンピースに、目がいった。
たった二度の自棄ベッドの交わりは、一年以上も前のことになる。その後は唇を合わせることもなかった。お互いに過去のことにはできるだけふれないよう、意識しているところもあった。
それが大人のつながりで、ヤケボックイに火の点くような言動は避けていた。
とすると、もしかしたら?
図体もでかい小森が小柄なママに、突然襲いかかったことがあったのかもしれない。ママは逃げ惑った。
そのことが原因で小森が自殺したのではないかと、ママは怯えている……。
俺の視線を敏感に感じたのか、何食わぬ顔をしてママが急ぎ足で戻ってきた。
ボトルを取ってグラスに注こうとした手を、そっと押さえられた。
「あんまり呑まないで」
赤い唇から、ひっそりしたささやきが漏れた。
「あのさ、一つ聞きたいんだけど、小森のこと、間違いないんだろうな」
「今朝、聞いたのよ」
「誰から?」
「奈美ちゃんから……」
「えっ、奈美って、あそこにいる女か?」
「そうよ、電話で」
前方のカウンターで客の相手をしている女に、目を注いだ。黒っぽい衣装を着ていた。
『やよい』で働きはじめたのは、二カ月ほど前からだった。いかにも現代っ子風で、茶色に染めた髪を首筋のまわりでチリチリに跳ねあげ、いつも化粧は強めだった。
「奈美ちゃんは、誰から聞いたんだろうか」
「知らないわ。小森さんと仲良くなっていたかもしれないでしょう。ねっ、あと三十分でお店は閉めますから、もうちょっとだけ、我慢して。お願いします」
謎めいた言葉を吐いて、ママは立ち去っていった。
(ふーん、ますます分からんな)
小森は板橋のアパートで、一人暮らしをしていた。両親が健在であることは聞いていたが、どこに住んでいるかは知らない。
したがって、緊急に連絡が取れる相手がいないのだ。
そうだ……。
携帯電話をポケットから抜いた。
小森の携帯番号はインプットしてあった。
番号を検索する指先が、なぜか震えた。
小森の死はガセの情報で、電話がつながった途端、あのでかい声が返ってくるような期待と不安が入り混じった。
番号を探し出し、呼び出しのボタンを押した。呼び出し音が数回鳴ったとき、抑揚のない女の声が返ってきた。『おかけになった電話は電源が切れているか……』。そこまで聞いて、電話を切った。
小森は八甲田山に登りたいと言っていた。今だ雪深そうな山奥では、電波が届かないこともある。
(変だ……)
それじゃなぜ、奈美は小森の死を知ったのだ。雪崩れにでも遭って転落死したとか、道に迷って凍死したのだったら、テレビや新聞のニュースになる。
会社で見た夕刊には、それらしき記事は載っていなかったし、会社内の誰からも聞いていなかった。
(あいつ、東北に撮影旅行に行くと言っていたけれど、ほんとうは東京にいたのではあるまいな……)
そんな疑念も湧いた。
もし東京にいたとすれば、奈美が知っていても不思議はない。いや、ひょっとしたら、奈美と一緒にいた。
彼はそこで突然死した。
うーん、その推理は間違いだ。
奈美の姿に怯えや不安が見られない。
どんな関係であるにしろ、目の前で一人の男が死亡したら、あれほど平然と仕事はできないだろう……。
急にカウンターのまわりに座っていた客が、立ちあがりはじめた。うまい口実を見つけてママは、客を追い返したのだろう。素早く近寄ってきたママが耳打ちしてきた。
お店の外で待っててください。わたしもすぐに出ますから……。
まだ夜風は冷たい。
数分待って、ママが出てきた。
タクシーを呼び止める。
タクシーに乗るなりママは、麹町まで行ってください……、とドライバーに告げた。麹町にはママのマンションがあるはずだった。
一年以上前の自棄ベッドは、二度とも新宿のラブホテルを利用して、ママの住まいに行ったことはなかった。
タクシーが走り出すなりママは、二の腕に絡みついてきた。
甘ったるいパヒュームの香りが、コートの襟元からぷーんと漂った。
これほど二人の躯が密着したのも、久しぶりのことだった。肩口に預けてきた小さな顔を見ていると、四十路に差しかかった銀座のやり手ママというより、本名の中田早苗に戻った一人の寂しい女性に映ってくる。
「ねえ、あなたはわたしの躯、覚えてる?」
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