末廣 圭 淫 景
目 次
第一章 再 婚
第二章 下着泥棒
第三章 妹の部屋
第四章 馴染んだ肌
第五章 夢のつづき
第六章 伊豆の一夜
第七章 不倫の証拠
第八章 初めてのふれ合い
第九章 姉妹の秘密
(C)Kei Suehiro
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第一章 再 婚
温かみのあるオレンジ色の光が、ベッドルームを柔らかく照らし出している。一年半前に再婚した折、隣の客間との壁をぶち抜いてリフォームした。
ベッドルームとしては広すぎるかと思ったが、真新しいソファセットを置き、大型の化粧台や整理ダンスを買い、部屋の片隅にはカウンターを設え、アルコール類のボトルをずらりと並べた。
すべては妻に迎えた淳子のためだと、内海和彦はそれなりに満足している……。
淳子は三十歳になる。和彦との年齢差は十三。彼女は初婚だった。和彦は押しの一手で迫った。同じ会社の社長秘書で、美貌と知性を兼ね備えていた。
一度目の結婚に失敗したのは七年前だった。二度と結婚はしない……。和彦は心に決めた。結婚に比べて離婚ほどエネルギーを消耗するものはないと身に沁みて、離婚の可能性を残す結婚には、金輪際足を踏み入れないと、固く誓ったつもりだった。
独身に戻っても、男の欲望を発散させる相手に、不自由はなかった。特別、男前だったわけではない。しかし夜のネオン街では人気があった。
学生時代から海釣りを趣味として、閑さえあれば海に出掛けた結果、漁師顔負けの浅黒い皮膚になったことが、厚化粧の女たちに好感を呼んでいたこともある。
己の心に独身主義を宣誓したはずが、ある日突然、宗旨替えせざるを得ない事件に出くわした。
それは二年ほど前の夜のことだった。
新宿の居酒屋で、夕飯を兼ねて一杯呑んでいた。それでなくとも煩い店の中で、突如、騒音を切り裂くような女の悲鳴があがった。振り返った目の先で、女が立ちすくんでいた。その女が社長秘書である倉沢淳子だったことに、驚きの目がいった。
何事かと身構えた。
もちろん、知らない関係ではない。
彼女の前にはひょろりと背の高い若僧が腕を組み、顔を真っ赤にしていた。
客の視線が集中していた。
痴話喧嘩か……。
それにしては不釣合いなカップルに映った。男は茶髪で、あろうことか、耳朶にキラリと光るピアスを嵌めていた。長い黒髪を優雅に流し、コバルトブルーのスーツをきっちり着こなしている倉沢淳子とは、住む世界が違う人種に見えた。
ハイヒールを履いている彼女の足が震えていた。
バカな男の相手などしないで、さっさと帰ればいいじゃないか……。そう思ったが、彼女は立ちすくんだまま身動きもしなかった。
理由が分かるまで、少しの時間がかかった。
彼女のバッグが男の腕に掛けられていた。
見過ごすわけにはいかなくなった。
倉沢淳子にすれば、自分の醜態を同じ会社の人間にさらすのは、恥の上塗りになるかもしれない。しかし男に奪われたバッグには、女の貴重品が入っているはずだ。
二人の間に何の諍いが生じたのか、そんなことは見当もつかなかったが、今、自分に与えられた使命は、バッグを取り戻してやることだと、和彦は勝手に判断した。
残っていたビールを呷って、立ちあがった。
男は百七十二センチの自分より、十センチ近く上背があった。しかし海釣りで鍛えた腕っ節は四十歳をすぎても衰えず、若僧のなよなよした腕をへし折ってしまうくらいの自信はあった。
和彦はゆっくり歩いて、男の前に立ちはだかった。
びっくりしたのは、むしろ倉沢淳子のほうだった。真っ黒に日焼けした男は、会社の営業部長だったから。
ニヤッと笑ってウインクしてやった。そしておもむろに、男に目を向けた。
か弱いお嬢さんを、大衆の前で虐めるのは悪い趣味だな。大人しくバッグを返してくれれば、痛い目に遭わないで済む……。和彦は片手を出しながら言った。
お前は誰だ! 男はだらしない唇を歪め、反抗的な言葉を返してきた。
俺か? 俺は彼女の婚約者だ。文句があるか……。
男と交わした言葉は、そんなことだったと記憶している。
数秒考えこんだ男は、腕にぶら下げていたバッグを放り投げ、すごすごと引きあげていった。知らないうちに太い眉毛が釣りあがって、相手を威圧する顔付きになっていたのかもしれない。
時間があったら、呑み直しをしませんか……。誘ってみた。ありがとうございました……。彼女は頬を赤くして、丁寧に頭を下げた。
カウンター席に並んで座って、ふと不可解な疑問にぶち当たった。清楚な身なりの社長秘書と大衆居酒屋との接点が、どうしても見つからなかったからだ。
誰かと待ち合わせをしているふうでもなかった。
一人で呑んでいたんですか……。疑問を解明したくなって、聞いた。彼女は恥ずかしそうな笑みを浮かせ、ちらりと視線を向けた。
もちろん、会社では何度も顔を合わせたことがある。飛びっきりの美人ではなかったが、高い鼻筋や頬に浮く笑窪がキュートだった。が、これほど間近で接したことはなかった。薄化粧だった。印象的だったのは、やや厚ぼったい唇が、やたらと艶めかしく映ってきたことだ。
騒々しい居酒屋が性に合うんでしょうか。社長室はいつも、躯中が凍ってしまいそうなほど静かで、それに緊張していますでしょう。このお店で焼酎のお湯割りを呑んでいると、凍えていた躯がだんだん温まってきて、柔らかく解きほぐされていくんです……。
彼女は実感のこもった言葉を吐いた。
ひょろ長い若僧は、どうやら一人酒を愉しんでいる彼女に目を付け、ナンパに及んだのだろう。騒動の理由を聞いても詮無いことと、口にはしなかった。
そのあと彼女は新しい焼酎のお湯割りを、一杯呑んだ。
不思議な縁を感じたのは、それぞれの自宅が、新宿を始発とする同じ私鉄沿線にあったことだ。彼女の自宅は新宿から五つ目の駅で、和彦はその先の四つ目だった。
同じ会社に勤めながら、通勤電車で一度も顔を合わせなかったのは、彼女の降りる駅は各駅停車の電車を利用しなければならず、和彦は急行に乗っていたからだったのだろう。
その日を境にして和彦の脳裏に、倉沢淳子という女性がどっかり腰を据えた。夜のネオン街で働く厚化粧の女は、食傷気味だった。
肉欲を覚えたのではない。
清楚で、しかも理知的な容貌でいながら、居酒屋を好み、焼酎のお湯割りを一人で呑む彼女の意外性に興味をいだいたと言ったほうが適切だった。
秘書室に連絡を入れて誘い出すのは、四十男の照れがあった。無理なく彼女と会える方法は、件の居酒屋で待ち伏せするしかないと思った。
時間を見計らい、居酒屋に通いつめた。
彼女と再会したのは、事件があったその日から数えて十日目だった。
その日、彼女はマリンブルーのワンピースを着ていた。どうやらブルー系が好みらしいと察した。確かに、白い肌とマッチして清々しく映った。
カウンター席に座っていた和彦を見つけ、淳子は目尻に和みを浮かせ近付いてきた。また会ってしまいましたね……。和彦は惚けて言った。言葉を返さず彼女は、断りもなしに隣の椅子に腰を据えた。
何もオーダーしていなかったのに、すぐさま彼女の前には焼酎のお湯割りが運ばれてきた。よほど通い慣れた店だったのだろう。
一つだけ、お聞きしたいことがあるんです……。しばらくして淳子は、かなりマジな顔をして言った。何か? 先日、わたしを助けてくださったとき、内海さんは、わたしの婚約者とおっしゃっていましたが、どういう意味だったのでしょうか……。
返事に窮した。若僧に対しているとき、咄嗟に口走ってしまったことで、大した意味は含んでいなかった。
願望だったのかな……。またもや苦し紛れのことを口にしていた。願望って、わたしと結婚するということですか……。そう、まさにその通りです。倉沢さんのように聡明な女性と結婚したら、今度はうまくいくかもしれないと……。
離婚なさっていたんですね……。淳子は声を落として聞いた。
和彦がバツイチであったことを、知らなかったようだ。すでに離婚していることを、白状した。二度と結婚するつもりがなかったことも付け足した。
そこで話を終わらせたくなかった。
まったく当たりのない海に、糸を垂らしていたら、突然、思いもよらぬ強い引きを釣り竿に感じた。これは大物だ。逃がしてはならないと、慎重に糸を手繰っているといった状況なんですかね……。
さしさわりのない程度の返事をした。
糸を垂らしていらっしゃったということは、魚を釣りあげる意思があったということじゃないんですか……。
これでもぼくは、男です。小魚を釣って、焼き魚にするか煮魚にするか、それとも刺身にして食べようかと思うくらいの自由があってもいいでしょう……。
わたしは……?
魚拓にして、床の間に飾れるほどの大物じゃないかと、大いに期待しているところです……。
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