官能小説販売サイト 太田経子 『女が満ちるとき』
おとなの本屋・さん


太田経子    女が満ちるとき

目 次
クリエイティブ室
祭りの夜
としの差
プレゼンテーション
陶酔に漂う
待ちわびた夜
つかの間の激情
確かな出発

(C)Kyoko Ota 1986

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   クリエイティブ室

     1

 クーラーもなまるような夏の夕方だった。
 会話がとぎれると、鈍い疲労感がたばこの煙と一緒に室内にただよった。
「ま、もうちょい、コンセプトを絞る必要がありそうだな」
 部長の奈良本は、壁にった模造紙に色とりどりのマジックで一面に書きこまれた討議の要点を見やりながら、卓上の手もとにあるたばこの袋をつかんで、一本振り出すと、口にくわえた。
 グラフィック・デザイナーの早瀬あきは、濃い栗色に染めたパーマっ気のないショートカットの髪を背後へ振り払って、すぐ脇の窓からチラと外を眺めた。
 色白の光沢のある額が広く、理知的なプロフィールは、肉の薄いりょうのあたりが少し冷たい感じだが、シンプルな黒のTドレスがシックにきまっていた。
 街にはすでに灯が入っていたが、ビルの谷間にはまだあかね色がよどみ、ガラスを隔てた夕方のざわめきの気配のなかに、ひときわむし暑さが残っているようだった。
 この大手広告代理店旭企画の四階の会議室では、営業、制作、マーケティングの面々が顔を揃えて会議が開かれていた。
 今秋発売されるQ社のミニテレビのオリエンテーションを受けて戻った営業の栗原の報告をもとに、二週間後に迫るプレゼンテーション用の広告コンセプトをどう設定するか、が議題だった。
 今日ですでに三日になるのに、きめてとなる意見が出ないまま言うべきことが言いつくされた感じの席で、スタッフ一同なんとなく口をきくのもおっくうという面もちだった。ことにデザイナーの暁子は、ただでさえ短い日数が、こんなふうに討議されながら、一向に絵づくりに手をつける段階に進展していないことに、あせりを覚え始めていた。
 しかし奈良本は、そういう皆の気持ちを集中させるように、いがぐり頭の大柄な精力的な体をのり出して、
「要するに、アウトドアでの自在な機能を前面に打ち出すより、これからは時期的にも、室内のプライベートなムードでユーザーにアピールする方をおれはとるな。なにぶん、この程度のミニテレビなりのメリットは今さらといった感じだからね。それを新たに売り出すとなると、かなりむつかしいよ」
「それで、今流行のライトネスの風潮にのせて売ろうというわけですな」と、CMプロデューサーが体を起こして言った。
「そうだよ。ものが豊富になると、若い層は物の実用性より、それが自分に与える感覚を重視するようになるからね。それも十万という値段からみて、これはやはりマーケ(マーケティング担当)の見方どおり、思い切ってムードで押して、二十代の、それも後半へかけての独身貴族の女性に訴求層を絞るべきだと思う」
「ですが、さっきも言ったとおり、Q社では、リモコンにスピーカーが内蔵されて音量調節もできる点や、ビデオモニターにも使えて画像もシャープだといった、機能の新しさや技術の優秀性に重点をおいているんですよ。オイルショック以降は、消費者の意識調査でもわかるように、ちゃんとした商品説明が不可欠でしょう」
 そう、営業の栗原が不満げに口を入れた。
「もちろんそれはボディコピーでうたうよ。ただ22型だの26型だのという広い部屋にドンと置くドデカイ大画面テレビならともかく、もともと手もとで使うミニテレビだろう。そのの機能的な新しさを真正面に押し出しただけでは、ユーザーをどれだけきつけられるか、でね」
「ふむ、それは言えますね」と、ディレクターの土屋が相づちを打った。「確かに、それよりも、自活能力のある、ちょっと知的ないい女のプライベートな生活上のアクセサリー的なムード商品、という感じで訴えた方が、効果はいいでしょうな」
 その言葉にうなずく顔が一座の中に多く見られた。
「――しかし、室内の小型テレビで、女とムード、となると、ちょっとこれがもう、似たりよったりで、たいがいキャッチフレーズも絵柄も出つくしてしまってるんだなア」
 そう、コピーライターの正木が、ボサボサと立ったこわい髪をかいて、鉛筆の端でペラの原稿紙の上を叩くと、あご先を二本の指の腹でなでさすりながら、
「秋の夜のプライベートなひととき……ちょっといい女……秋の夜、いい女のプライベートなパートナー……」
「そうだ、それだよ」
 奈良本が人さし指を正木にさし向けて、
「できてるじゃないか。『いい女のプライベートなパートナー』か。ふむ、なかなかいいふくらみがあるじゃないか。なア、営業さん、電波さんもどうかな」
「確かにありますね、これにしましょうや」
 CMプロデューサーも気に入ったふうで、積極的に賛成し、
「うむ、そう、これならいけるんじゃないですか」と、営業課長の栗原も、ムードで押すという方針に同意する姿勢をようやく見せた。
「よし、コンセプトはこれで行くことに決めよう。きみ、こいつをコンセプト・ワードとして、今少し手を加えれば、キャッチフレーズとしても使えるじゃないか」
 奈良本は満足そうに正木に言うと、一同を見回して、
「じゃ、今日はこれまで。各自この線でとりかかってくれたまえ。ご苦労さん」
 それを合図に、それぞれ椅子を引く音をさせ席を立ったが、
「帰りに、夕飯でもつき合わんか」
 中背だが肩幅のある、日焼けした首の太い土屋が、正木と暁子をかえりみた。
 土屋は暁子たちの直属の上司で、コピーライター畑出身のディレクターだった。ぶっきらぼうでとっつきは悪かったが、人間的な温か味があった。六人いる暁子たちルームのメンバーの中でも、正木と暁子の息が合っていて、わりと組んでいい仕事をすることも認めていた。
「飯ですか、いいですよ」
 正木はそれが癖の、外輪に放り出すような足どりで出口の方へ歩きだしながら、答えた。
「ちょっといい女か――おあきさん、どうだい、お前さんがモデルをやっちゃあ」
 出口で一緒になったCMプロデューサーが、肉づきの厚い脂っこい笑顔で言って、甲高く笑った。
 制作室に戻ると、ルームごとについたてようのボードで囲った狭い内側で、コピーライターとデザイナーたちが、まだ何組か残って思い思いの恰好で机に向かって仕事に取り組んでいた。そこは、雑然さとものを創り出そうとする熱気が入り混じって、男臭さがムンムンしている現場だった。
 土屋ルームは、ディレクターの土屋の下に、正木と暁子を含めて二人のコピーライターと、三人のデザイナーがいる。女は暁子一人だった。その男性デザイナーの一人が暁子を見ると、
「ああ、早瀬君、さっき、あんたのところに電話があったぜ。吉岡という人だ。電話してくれって」と言った。
 暁子は部屋を出て一階に降りると、受付脇の公衆電話に急いだ。
 ダイヤルを回すと、いつものように秘書が受け、続いて吉岡が出た。
「お電話下さったんですって?」
「ああ、久しぶりに、出てこんかね」
「はい、いつ?」
「いつでもいいが、今夜はどうだ」
「今夜ですか――」
「うん、二、三日したら東欧に行くことになっているが、帰ったらまたすぐ、中近東に合弁会社のことで行かなくちゃならない」
 吉岡が専務をしている極東物産の主取引先は、東欧圏と中近東、東南アジアにある。
「会議で少し遅くはなるが、今日だと都合がいい。八時半にレストラン『M』のバーではどうだ」
 暁子は腕の時計に目を落とすと、八時半なら、とすばやく頭をめぐらせて、
「いいですわ」
 承知すると、じゃあ、と電話が切れた。
 吉岡とは、月に一回ほど、彼の方から連絡してきて会うという関係が、もうかれこれ三年近く続いていた。
 もともと学校時代の友人が吉岡の秘書をしていて、経済雑誌にのせる企業広告のカラー写真のレイアウトを、暁子がアルバイトに引き受けたのがもとで、吉岡に引き合わされたのが縁になった。
 いかにも切れ者らしい吉岡は、六十を幾つか越えていたが、半白の髪に浅黒い皮膚、鋭いまなざしと、まだまだ脂っこいせいかんさを失わず、中肉中背の筋肉質の体にダブルの背広を隙なく着こなしていた。人よりぬきんでて出世してきた人間として、権力欲も人一倍強そうだったが、それも暁子には、小気味よい男の魅力の一つと感じられないでもない。好きとか惚れたという気持ちとは全く別のものだったが、久しぶりに会うるはずみは覚えていた。
 公衆電話を離れると、暁子は洗面所に立ち寄って、ひとのない鏡を眺めた。そこには、心もち暑さの疲労を沈澱させた三十過ぎの女の顔が、ひっそりと映っている。しかし大きな二重瞼の淡いけだるいかげりが、かえって年相応のやさし味と落着きを目もとに与えていた。
 幸い今日はスポンサーのもとに行く予定があって、いつものジーパン姿でなくてよかった、とふと思った。固型白粉のパフで手早く顔をおさえ、塗り直した唇を、ちょっとくわえ込むようにして上下に紅をなじませながら、改めて鏡にいちべつを投げると、それだけで目つきまで生き生きと艶めいた張りのある表情を帯びてきていた。後はサテン風の光沢のある彼女の愛用する黒のTドレスの胸もとに、バッグからとり出した黒とゴールドのネックレスをし、ブレスレットをつけると、仕事着が急に外出着っぽくなった。これが一度離婚の経験のある三十三歳の女? そう、彼女は満足げに自分に微笑ほほえみかけた。
 暁子が部屋に戻ると、土屋も正木ももう帰り仕度をすませて椅子にかけていた。
「さあて、行くか」と、正木は立ち上がり、片手でズボンを引き上げるようにすると、せたどこかひょうひょうとした体つきで、土屋と肩を並べて先に立って歩いて行った。
 昼間の暑気の残っている灯ともし頃の街を、仕事から解放されて夕風に顔をなぶらせながら歩くのはいいものだ。夏の宵の盛り場には、どこかいんとうな熱気とわいざつさがあふれている。
 銀座の表通りから一本裏通りへ入ると、土屋の行きつけのうまい焼鳥屋があった。
 入口の格子戸を開けたとたん、ワァンという、満席の客たちの騒然とした話し声、板前のかけ声、皿小鉢のふれ合う音、炭火で焼く肉の匂いや煙などが、一度に顔先に吹き寄せてきた。
 ちょうど立った三人連れのカウンターの客の後に、入れ代わりにかけると、
「なんにします」と、若い衆がいた。
「おれは塩味をもらう」
「ぼくはタレだな。お前さんはなんにする」と、正木は顔をおしぼりでぬぐいながら、暁子をかえりみてうながした。
「あたしはつみ入れもらうわ。二本でいいわ」
「遠慮するなよ。ボスのおごりだ。――ああそうか、後の予定のために腹を空けておくんだな」
「いやな人ね」
 暁子は土屋の手前、にらんで、ひじで正木を小突いた。
 周囲のどこにも、酒とうまい食い物に満足げに目をうるみ光らせてしゃべっている男たちの顔があった。
 じゃ、と誰へともなく三人はグラスを目の高さに上げて、ぐいと飲み干した。冷たくしみ渡るようなビールののどごしを味わうと、正木は口もとの泡をおしぼりで拭いながら、
「部長のやつ、今日はまたやけに乗って喋ってたっけな」と言った。
「しかし、おかげでどうやらまとまったじゃないか、よかったよ」
 土屋はちょうどしゃくしていた焼鳥を、喉をふくらませて飲み下しながら、目を上げた。
「タレントは誰を使うのかしら」と、暁子はいた。
「そうだな、花井かおりはどうだ、けだるいムードが受けている」
「さア――」と、暁子はちょっと疑問を感じるというそぶりを見せて、
「彼女、個性的な代わりに臭みも強すぎて――この場合は、それより、この頃アダルトな美人ジャズシンガーとして売り出している多川恭子はどうかしら」と言ってみた。
「うん、あれはいい。ちょっとお前さんに似ている」
 そう、正木はにこりともせずに言った。
 しばらく仕事についてあれこれ話しているうち、何人目かに新たに入ってきた客が、
「おっ、この間はどうも」
 そう、土屋に声をかけた。
「やア、珍しいところで。ここあいてますよ」
 その客は土屋の隣りの席に腰を下ろして、二人の間で暁子たちとは無関係な話がはずみだした。
 暁子が時間を気にして時計を見ると、
「いいよ、いいよ、後はもう大した話は出ないさ。黙って抜けて行っちまえよ。おれが適当に言っといてやる」と、正木がすすめてくれた。


 
 
 
 
〜〜『女が満ちるとき』(太田経子)〜〜
 
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