太田経子 呼びかけて、愛
目 次
第一章 茶 会
第二章 嫌な感じ
第三章 女友だち
第四章 夜汽車の女
第五章 写真展
第六章 待ちぼうけ
第七章 うちとけて
第八章 ときめきの宵
第九章 危険な曲
第十章 魅せられて
第十一章 陶酔の中で
第十二章 仲人夫妻
第十三章 ジェラシー
第十四章 二人であることの孤独
第十五章 恋のためらい
第十六章 激情の夜に向けて
第十七章 深いよろこび
第十八章 黒いかげり
第十九章 ランチタイム
第二十章 妻の疑惑
第二十一章 恋の苦み
第二十二章 秘めた喜び
第二十三章 興信所
第二十四章 スキャンダル
第二十五章 惑 乱
第二十六章 サングラスの女
第二十七章 悲 歎
第二十八章 ミ ス
第二十九章 二つの遺書
第三十章 新たなる首途
(C)Kyoko Ota
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第一章 茶 会
木立の多い旧根津邸の広い屋敷内は、立春を過ぎた冬晴れの陽ざしを浴びて、裸木の梢が光っていた。
風は少し強いが、梢ごしの空は碧く澄みわたって、陽光がまぶしかった。
道端に輪塔や石仏の置かれたゆるやかな石畳の坂を下っていくと、谷間のようになった下方に、あちらに一つ、こちらに一つ、というふうに散在する茶室の障子が、白く陽に光って見えかくれした。
「ほら、あの池には昔よく、ウチの子供たちがざり蟹をとりにきたものよ」
姉の志保子が、池というより、自然のままに窪地に水がたまった感じの、泥土と枯落葉に埋ったよどみを指して言った。
「ふうん、そう」
辻かおるはめったに着ない和服の裾さばきに気をとられて、うっすらと汗ばむものを額ぎわに感じながら歩いていた。ミンクのショールが暑いくらいだった。
志保子の嫁ぎ先の小姑が未亡人で、茶の師匠をしている。その関係で、時折茶事の案内があるが、今日もここで茶会を催していた。
小姑への義理で、志保子はそのつど出席していたが、今日はかおるにも誘いがあった。
「あんたもデザイナーとして、お茶席ぐらいのぞいといても、ムダにはならないでしょ」
志保子にも勧められて、それもそうだナ、と気持が動いた。かおるは四年前にQ美大のデザイン科を出て、桑田デザインスタジオに入り、今ではグラフィック・デザイナーとしてどうやら独立した仕事も任せられるようになっていた。
ただ、せっかくの日曜日がつぶれるのは内心迷惑だった。それに、茶会だからと母親に無理に着せられた馴れない着物が窮屈だった。もっとも、茶席には少し派手目だが、うす青味がかった地に、大胆なさび朱の菱形模様を置いた柄の着物姿は、はっきりした目鼻だちで背丈がすらりとしているだけに、引き立って、くる途中も人目を惹いた。しかし日頃、ジーパンで駆け回っていることの多い職業がら、うっかりすると白足袋の足さばきが外輪ぎみになる。
ストレートヘアの前髪の下で、大きな黒目がちの目が生き生きと動き、それがキャリアウーマンを自負する彼女の意思を裏切って、年齢よりも子供っぽくみられがちだった。しかしこの春で二十六、婚期を気にする母親をやきもきさせていた。
やはり茶会に行くらしい女連れが一組、先を歩いていたが、
「同じお茶会かしら」
「さア、お茶室はいくつもあるから」
志保子が言ううちに、途中で脇道へそれて行った。なお暫く行くと、行手の石畳の道を、こちらへ向けて、長身のびんに白いものが混じる中年の男性が、ゆったりとした足どりで歩いてきた。
男性は近づくと、静かな視線をかおるたちに向け、すれ違うときに、かすかに道をゆずるようなそぶりを見せた。同じ庭園を散策する者への控え目な礼ともとれた。
色の浅黒い、精悍な鋭い顔だちだが、渋い落着いた雰囲気が全身に行きわたっていて、その洗練された物腰に、思わずかおるは行き過ぎてから振り返ってみて、ささやいた。
「いい感じね」
「およしなさいよ、聞こえるわ」
志保子がつついた。
「だって、すてきだもの」
潮香庵という小さな木札の立った方角へ道をとると、かおるたちの行く茶室の数奇屋風な屋根が見えてきた。
小屋根のついた門をくぐって、石燈ろうの置かれた佗びた風情の庭を飛び石伝いに内露地へ通り、つくばいで手を洗って寄付きに行くと、玄関の三和土の上は、もう一杯の女物のぞうりだった。
「あら、よくいらして下すった」
黒縁の眼鏡をかけた姉の小姑に当たる師匠が、しゃきしゃきと声をかけてきた。彼女は、菓子箱や茶器がとり散らかされた控えの間で、内輪の弟子相手になにか指図していた。
「今ちょうど一区切り終ったところ。すぐまた始めますから、お茶席の方へどうぞ」
「妹はなにも知りませんので」
志保子が言うのへ、
「どうぞよろしく」かおるも頭を下げた。
「いえ、もうウチはざっくばらん。固苦しいことは一切ヌキですから、隣りの人にくっついておやりになってれば、すぐ覚えますよ」
小姑は気さくに笑って言った。
書院風の茶室には廊下伝いに入った。八畳ほどの広間で、次の点前を待っている組らしく、二、三人の若い先客が座っていた。
床の間に飾った一行物の掛け物や花入れ、香合などを志保子の説明で眺めていると、
「まァまァ、加瀬さん、よくおいで下さいました。どうぞ、さァ、かまいませんから、そちらからお入りになって」
師匠の高い調子が聞こえた。ついで部屋の外にめぐらされている廊下を踏む足音がしてきて、床の間に近い方の障子が引き開けられると、師匠に案内されて背広姿の中年の男性が入ってきた。
かおるは思わず緊張した。先刻の紳士だったからだ。
加瀬というその男性は、勧められるままに上座にすわった。
「ソビエトからは、いつお帰りでしたの」
師匠が炉の近くへ座りながら聞いた。
「今月の十日です」
「それじゃ、お帰り早々においで頂いたんですのね。ありがとうございます。外国にいらっしゃると、こういう日本のものがよけい懐しくおなりでしょう。今日は一つどうぞごゆっくりお楽しみ下さいませよ」
「いや、こちらにいても、こういったものには随分ご無沙汰で、作法もなにも忘れてしまいました」
「奥さまも時々お見えになって下さいますのよ。今日は奥さまは?」
「はじめは一緒に来れるようなことを言ってましたが、今日は失礼するそうです」
「本当に、ご一緒にいらっしゃればよかったのに」
おいおい席が一杯になり、やがて弟子の一人が、給仕口から菓子鉢を捧げて運んでくると、上座の加瀬の前へ置いた。それが合図のように師匠が一礼して点前をはじめた。
加瀬は菓子鉢を軽く頂くようにしてから、懐中紙を出し、箸で菓子をとった先を紙の端で拭い、菓子鉢の上にのせると、次の席の客に回した。
その間に師匠が点て終えたお薄の茶碗を畳の上に出すと、加瀬は膝行して茶碗をとりに進み、もとの座へ戻って膝前に置いた。
「お先に」低いがはっきりとした声音で、次の客に挨拶してから、「頂だいします」
亭主役の師匠に言い、その黒ぐすりのかかった茶碗を軽く頂いてから、口に運んだ。広い肩から腕の動き、ゆるみのない上体のすわりと、すべての所作に端然とした男らしさと品位が感じられた。
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