太田経子 童貞キラー
目 次
童貞キラー
驟 雨
ひと夏のかたみ
仕組まれた愛
苦い獲物
愛のあと
ある脅迫者
蒼い傷み
憎んで!
覗 く
(C)Kyoko Ota
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童貞キラー
榎本悠子は描きかけのラフ・スケッチをくしゃくしゃっと丸めると、ふうっと溜息をついて背後のベッドの上に身を倒した。
八畳間にベッドを入れた上に、所狭しと雑誌や新聞やファイルが積み重ねられている。
ぼんやりくゆらせたたばこの煙が、頭上の明りの暈の方へたゆたいながら上がっていく。
今日、勤め先のデザイン事務所でボスの宮崎から、阿波踊りにひっかけた四国の観光誘致のポスターを任された。
「全体に南国色の濃い、濃厚なイメージを強調したものにしたらと思うが、いい考えはないかネ」
そのとき、ふと思い浮かんだまま、
「それでしたら、今の都会の若者は深夜番組のディスク・ジョッキーでも分かるように、地方指向で、かえって泥臭さや汗の匂いを好む一面がありますから、いっそ土佐の生んだ絵金の絵を使って、土俗的なものを強調してみたら、どうでしょう」と言った。
「絵金か。うん、そいつは面白いかもしれない。横尾忠則さんあたりも高く評価している、中央の権威主義に反抗して土佐で民衆の逞しいエネルギーを独特の芝居絵で描き続けたという、幕末の浮世絵師だろう」
「ええ、確かウチにその画集があったはずですから」
そして帰宅してからやっと探しだした絵金の画集はどの頁も壮絶な血とエロスに満ちていて、悠子は自分のアイデアに一段と乗り気になった。しかし実際にラフ・スケッチを描いているうちに、阿波踊りの群衆の俯かん図で埋めたカラー写真の中央に、絵金の絵をぽんと置き、右下を斜めに切り落としてそこへ四国の物産を並べる、というアイデアが多少独りよがりな感じがしてきた。ポスターとしては面白くても、四国の観光誘致という点から見て、必ずしもアピールするか、となると疑問が湧いてくる。
あれこれいじっているうちに段々焦点がぼやけてきて、何枚もラフ・スケッチを描きかけては無駄にした。
思いあぐねて、枕もとのラジオ・カセットに手をのばしてつけると、
♪暗い酒場の片すみで
一人しみじみ酒を飲む
………………
という、みなみらんぼうの「男と女・昭和篇」の歌声が流れ出てきた。有線放送のベストテンか何かをやっているらしい。
ふと、気分を変えに飲みに出てみるか、という気になって、体をよじってサイドテーブルの上のダイヤルを回すと、
「『合歓の木』です」というハスキーなみどりの声が受話器に響いてきた。
「何だ、お悠か、生きてたんか。このところめっきりご無沙汰じゃない、今どこ?」
「家で紙とにらめっこ。いいアイデアが浮かばないんで、困ってんだ」
「じゃ、出てくりゃいいじゃないか。結構刺激になるかもよ」
まアね、と悠子ももともとその気でかけたのだから、行くと言って電話を切った。
今の時間なら、タクシーで行けば青山の表参道の古アパートから四谷までは、ものの七、八分だ。
少し湿気を含んだ夜風が、夜目にも青々とした街路樹の若葉をゆすり、その葉ごしに水銀灯が異国風の通りを照らしていた。
坂の下で車を降り、なじみのバーの扉を押すと、同時に、
「それがさア、コカンビリビリで歌ってんだよ」という、岩間加奈江の声がとびこんできた。
店内には何組かの客がいたが、例の通り才気煥発の、大手の代理店の広報部に勤める髪をボブカットにした美貌の岩間加奈江の声が、際立って座をリードしていた。
みどりは芸能プロダクションの男まさりのマネージャーで、業界には顔がきいたが、つい一年前から仕事の傍ら六つ年上の姉と四谷に小ていな和風バーを開き、暇な時には顔を見せて、カウンターの中から応対した。
映画会社やテレビ局のみどりの仕事関係の連中もきたが、新劇女優、代理店勤め、出版社の編集者、作詞家に漫画家、それに歯医者など、みどりの飲み友だちの同じような「結婚しない女」たちが常連だった。
もちろん悠子もメンバーの一人で、多少仕事に疲れて鬱の状態にあっても、彼女たちのエネルギッシュな意気軒昂ぶりに刺激されて、一緒になって勝手なことをワイワイ言っているうちに、気晴らしになった。
この晩も、作詞家の城ひかりと歯科医の斉藤ともみが一緒に顔を見せていたが、
「何よ、コカンビリビリって」
悠子が笑いながら席につくと、
「ええ? 横合いからとび込んできて、勝手に話の腰を折るんじゃないよッ」
加奈江は鼻っぱしらの強い調子でぴしゃっと言っておいてから、
「ジーンズの前ンとこをぎんぎんに突っぱらして歌ってたってこと」と説明した。
こういうアケスケな言い方をするのも加奈江の持前だった。
「ウフッ、何だ、そう」と悠子は苦笑させられた。その彼女に、
「何にしますか」
そう、カウンターの中の青年が目の前にきて訊いた。
オヤ、と見返す悠子の表情に、
「あたしの兄の子なンよ。外国旅行の資金稼ぎにアルバイトするんだって」と、みどりが言った。
少し頬骨が張っているが、若々しく引きしまった浅黒い頬と、きれ長な彫りの深い目もとが美しい青年だった。レンガ色のセーターがよく映った。
「甥ごさんもプロダクションの?」と悠子がきくと、
「あら、遼一はまだ学生よ。大学一年になったばかりなんだ。それに、あたしたち姉妹には似ずに、兄に似て、理数系が得意で工科なの」と、みどりが言った。
「ほんと、彼ハンサムよ。惜しいわよ、ねえ……」
と、加奈江がカウンターに頬づえをついて、青年の顔を下から見上げるようにして言った。
「あたしに任せれば、絶対売り出してみせるって言ってるのよ」
「とても、とても。この子の父親がコチコチのかた物でね。実はここでアルバイトしてるってのも、内緒なのよ」
「そりゃ、そうよね。何しろ、我々のようなお客がいるんじゃ、教育上よくないわよ」と、ひかりが言うと、
「教育上、ブッ、気味の悪いこと言わないでよ。大学一年の男に、何が教育上悪いサ。とっくのとうに男と女の間のことなんて知っちゃってるわよ」と、加奈江が言った。
「そうでもないみたい」とみどりが否定した。
「この子、早生れだからまだ十八でしょ。童貞らしいんだ」
「ワッ、童貞?」と、加奈江は奇妙な嘆声をあげ、
「大丈夫? 加奈江の前でそんなこと言っちゃって」と、悠子は言ってやった。
加奈子はもっぱら年下好みで、冗談にも、日頃童貞キラーだなどと自分で口にしていた。
「童貞って、言えばサ」と、加奈江が言った。
「今の中学の男の子で、童貞をいわゆる金持のおばさまにお金を貰ってやぶらせるのがいるらしいわよ。中学生売春って、女の子ばかりじゃないのよネ」
「何でまた!」
「ホラ、今の子ってほしいものがあると、闇くもに手に入れたくなって、抑制きかなくなるところがあるからネ。たとえばオートバイがほしいとか、オーディオがほしいとかサ。それを買うためには、手段のよし悪しなんか、考えられなくなっちゃうらしい。第一そういうこと損得で考えて大して悪いという感覚なくなってるみたい。もっともその背景には、そういう子たちに目をつけて操ってる暴力団組織みたいなものがあるらしいけどね」
「へえ――、今や童貞もお金になる時代なんですかねえ」と、ともみが感心したように言って、「処女なら、色町なんかじゃ水揚げ料なんてべらぼうなお金とるっていうけど、あたしのおじいさんなんかも盛んにその水揚げやった口らしいわ」
「だから、あれだってネ」と加奈江が身を乗り出すようにして、「みょうばんに浸した脱脂綿を一晩入れとくと、結構使った女性でも、その道のひひ爺さんたちを処女だと信じこませられるようにしまるんだってサ。それで一人の子を四、五回処女にして儲けたって、前に浅草の方の女郎屋の主人だった老人の回顧談で読んだこと、あるけどサ」
「ああ、あ、若い人の前で何て話」
悠子がふいに言い、髪を背後に払って、照れたような視線で遼一の方を顧みた。
遼一は多少赤らめたムッツリとした顔で、グラスを拭っていたが、その時ちょうど、派手にしゃべっている加奈江の横顔をチラッと鋭く見た。
その目つきは少年らしい潔癖さで、三十女同士の厚かましさを非難しているように感じられた。
「遼一さん、何か召し上がれよ」
そう、女たちの会話の生ぐささから彼を救い出すように悠子が言うと、
「何よオ。自分だけ上品ぶっちゃって! 猫なで声なんかだして」
今日はバカに加奈江は悠子にからんだ。
女同士というのは、仲がいいようでいて、その日の虫のいどころでふいに憎々しげな言葉を浴びせあうことが多かった。
「そうだ、あんたもう時間だから外へ出ていいよ。焼きそばでも食べる?」
みどりがその場をとりなす意味もあって、遼一を促した。
遼一は「うん」とうなずいて、カウンターのくぐりを抜けて外へ出ると、悠子の脇に一つ空いていた椅子にかけた。そして、カウンターに出された大盛りの焼きそばを頬ばりだした。それは、とにかく今は食い気一方、といった子供っぽい爽やか顔つきに見えた。
そのとき、トイレに立った加奈江がちょっと危なっかしい足つきで戻ってきて、ちょうど二つ空いた遼一の向う側にストンと腰を落として、改めて覗きこむようにした。
「だけど、ほんと、この子いい顔してるわね」
遼一は目を伏せたまま黙って焼きそばを平らげるピッチを上げ、コーラを飲み干した。しかし加奈江の視線を意識して、耳もとまで血を上らせていた。
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