伊東眞夏 猟色の放課後
目 次
プロローグ
第一話 蝉
第二話 狐狗狸さん
第三話 泡 姫
第四話 夏の子供たち
(C)Manatsu Ito
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プロローグ
若宮という町は、今でこそ有名になっているが、三十年前には地図でも地名をみつけるのに苦労するほど辺鄙な所だった。ここが新興住宅地として脚光を浴びるようになったのは、横浜近郊の都市と都心を結ぶ鉄道が敷かれ、その中間点としてここに新しい駅がつくられてからである。町はその駅を中心に発展し、広大な山林は切り崩されてみるみる造成地に変わっていった。やがては道路が整備され、都心からも人が流れ込むようになり、町は黴が生え広がってゆくように大きくなっていって、すっかり見違えるようになってしまった。
今でも、横浜の市内から急行で三十分以上かかる、若宮駅にはじめて降りたった人は、駅前の人工的で近代的なたたずまいに目をみはるはずだ。特に、それまでの次第に山間の雰囲気の濃くなってゆく車窓の風景に慣れた目には、一層その感は強いはずだ。
若宮高校は、そんな町に五年前に建てられたばかりの高校だった。
この高校の建て物の特徴はなんといっても、スロープの多いことだった。山の中腹を切り開いて、建てられた建て物は自然とそうならざるを得ないのだが、一号棟と二号棟はちょうど、階段状に建てられ、一号棟の三階から二号棟の二階に伸びた渡り廊下で、それぞれ結ばれていた。そのほかにも、左右から包むように二本の石畳のスロープが伸びている。そのスロープの半ばから、脇にはいる小道があって、それぞれの左右にテニスコートと競泳用のプールが設置されている。それらからずっと下ったところに運動場はあって、すこし湾曲した坂道を下りてゆかなければならない。その道は、春になると桜の並木道になり、自然の華やぎを一身に背負って、咲き乱れるのだった。
桜の並木がいくらかはその威容を緩和させているとはいっても、その階段状に建てられた建て物群は、一瞬たちのぼる山霧を造形したかのように、山腹を大仰に領して、若宮の駅のホームからも望むことができた。その姿はまるで、犯されるのを待っている巨大な処女のようだった。
第一話 蝉
1
蝉の声が聞こえていた。いつごろから、聞こえるようになったのか、よく分からないが、もうそういう季節になっているのだ。蝉の声は、まるで耳の錯覚と疑いたくなるほど、気がつくと山の奥から思い出したように、聞こえてくる。たしかに、いつの間にか日射しは、もう夏だった。山間に建てられてられたこの学校は、夏になるとすっかり蝉時雨に包まれる。カンカンと夏の陽が山を灼くと、それに応えて、蝉の声がベールのように山を包みこんだ。
その日も教室にじっとしているだけで、じっとりと汗をかくような暑い日だった。
「あなたはどういうつもりなの?」
柿沼聡子がやっと沈黙を破って、言った。
「はあ……」
土井は面倒くさそうな返事でそれに答えた。
「聞いてないの」
「いえ、聞いてます」
「だったら、なんとか言うことがあるでしょう」
「……先生、自分は何も悪いことをしてません」
「授業中にガムを噛んでいたじゃないですか、それは悪いことじゃないんですか」
「そんなことしてません。何かの間違いです」
「嘘おっしゃい。わたしはちゃんと見てたのよ」
土井は仕方なく、大きく溜め息をついた。その態度が聡子の癇にさわった。
聡子は今年、二十四才。教師の威厳が備わるにはまだ少し若かった。それでも、三年前、この学校に赴任したてのころに比べれば、随分、肩の力も抜けて、自然と背伸びしなくてもよくなった。先生が若すぎると、ともすると生徒は自分たちと同じレベルで教師のことを考えてしまいがちだ。つまり、教師の立場からすると、生徒に舐められてしまうのだ。そうならないために、若い先生は嫌でも、少しは大人ぶっていなければならないのだが、聡子もすでに三年を過ごして、教師らしさがいつの間にか身に付いてきたらしい。それだけ、聡子も大人になったということなのだろう。それでも、今、目の前にいる、土井優作とは年令だけでいえば、たった六つしか違わないのだった。彼と彼女の間に教師と生徒という距離があるから救われているものの、そうでなければ放課後の誰もいない教室に男と女が面と向かっているのはひどく危なっかしいことに違いなかった。相手は高校生とは言え、口許にはうっすらと産毛のような不精髭をはやしている立派な大人なのだ。
聡子は、喉に渇きを覚えて、唇を舐めた。
優作は思った以上に強情な生徒だった。聡子が苛立てば苛立つほど、内心で聡子を馬鹿にしているのが透けて見えるようだった。
聡子はもともと生徒を叱りつけることの滅多にない、むしろ優しい先生で通っていた。それだけに、生徒は聡子に叱られると聡子が考えている以上にショックが大きかった。女の子などは、声をあげて子供のように泣きだすことも少なくなかった。
そういうことに聡子は少し慣れてきたのかもしれない。
土井優作のような厳しい抵抗にあうと、聡子の教師としての自信もほんの少しぐらつく思いだった。
土井優作は応援団の団長で、体も大きければ声も人一倍太かった。普段は大体が無口で、余計なことはほとんど喋らなかった。大声で笑ったり、冗談を言ったりしているのも、あまり見かけたこともなかった。教室でも、一番後ろの席でじっとしている。気にもしないでいると、別に何でもないのだが、気にしはじめると、まるでそこに大きな暗い穴ぼこが地中深く口を開けているような不思議な存在感があった。
その彼が、聡子の授業の最中にこれ見よがしにチューインガムを噛んでいたのだ。
「誰ですか、授業中にガムを噛んでいるのは」
聡子はできるだけ柔らかく注意したつもりだった。
しかし、土井はガムを止めるどころか、かえってクチャクチャと音をたてるのだ。はっきりとそれは聡子を馬鹿にしているとしか思えない行為だった。
「土井君。ガムを出しなさい」
「……ガムなんか噛んでません」
聡子も段々むきになりはじめていた。
聡子は教壇を下りた。
「出しなさい」
聡子が手を出して、優作に迫った。
「なにも噛んでないです……」
その時、聡子は土井の顎に爪を立てて強引にその口を開けて見たい誘惑にかられたが、まさかそんなことはできることではなかった。
「あとで話があります。放課後、残っていなさい。いいですね」
そういって、その場は納めたのだった。
「あくまでも白ばっくれるつもりなの?」
「………」
誰もいない教室に優作の沈黙が気味悪く淀んでいた。
「自分のやったことを、反省してないの」
「でも、反省することは何もありません」
「まだ、そんなことを言ってるの」
「先生こそいい加減にして下さい」
「なんですって」
「自分には、応援団の練習があるんですが……もう失礼します」
「待ちなさい」
聡子が思わず大声をあげた。
優作はまた、うんざりした様子で聡子を睨んだ。
「何ですか」
地を這うような低い声だった。優作の目には殺気めいたものさえ感じられた。聡子の背筋に冷たい風がながれた。
優作がゆっくりと席についた。二人の間に重い沈黙が流れた。
「なんですか、その態度は……」
聡子は自分の声が慄えているのに気がついたが、それをどうすることもできなかった。
いきなり、優作が立ち上がった。聡子はびっくりして後退さった。
「自分はこれでもう、失礼します」
優作はそう言い残すと教室をさっさと出ていった。
聡子はもう引き止めなかった。ただ、いつまでもはげしく打っている胸の鼓動を抑えることばかりを考えていた。
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