中村嘉子 悦いて、果てる
目 次
第一話 私は「花子」
第二話 白い金曜と赤い日曜
第三話 夫のいない夜
第四話 少女の最も羞しい日
第五話 熱い音
第六話 ポタリ、ぽたり。
第七話 拓いて開く
第八話 目覚める
第九話 AVマニア
第十話 少女のひと皮
(C)Yoshiko Nakamura
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第一話 私は「花子」
1
「なあ、名前だけでいいからさぁ、教えてくれよォ」
〃山本〃と名乗った男は、エレベーターの中で、フロントで渡されたキーをブラブラさせながら、里加に言った。
「さっき言ったじゃない。名前は花子よ。フラワーの花」
はぐらかすようにニヤニヤ笑いながら、里加は応えた。
「聞いたよ。けど、花子はないんじゃないの? 今どき。名前ぐらい、ほんとのを知りたいよ。花子ちゃん。なんて呼ぶんじゃ、俺、してる最中に笑っちゃいそうだよ」
「なんで笑うの? 世の中に花子って名の若い女、けっこういると思うけど――」
エレベータが五階に着いた。
扉が開いた。
山本は、すぐに『開』のボタンに手をやって先に降りるように里加を促した。
「そりゃいるだろうけどさ、きみは花子じゃないよ。ウソの名に決まってるさ。イメージ的に違うもん」
「親がつけたんだもん。イメージ違ってても、しょうがないわよ」
エレベーターから里加が降り、つづいて山本が降りた。
「信じらんないなあ、やっぱり……」
少し不満げな表情をつくって言いながら、山本は、キーに付いたルームナンバーを確めて、廊下を歩きはじめた。
「なんか、ここってラブホテルじゃなくて、ビジネスホテルみたいな雰囲気……」
山本のあとについて歩きながら、里加は呟いた。
「こういうホテル、趣味じゃない? もっと豪華なのがよかったのかな。でも、俺、給料前で軍資金も乏しいしさ……」
「いいのよ、別に、アタシだって、ケバいホテルが好きなわけじゃないもん」
里加はそう言ったが、ケバいホテルのほうがよかったと思っていた。どうせスナックで知り合った行きずりの男とのセックスなのだから、ビジネスホテルの一室のような地味な部屋でやるよりは、大胆で面白い仕掛けのあるエッチな部屋でやるほうが、ずっと楽しい。
この半年ほどの間に、里加は、何人もの男といろいろなラブホテルを体験し、鏡の壁や、揺りカゴ型のベッド、プラネタリウムになる天井、マジックミラーのバスルームなど、いろいろな仕掛けを楽しんだ。
それだけに、なんの仕掛けもなさそうな地味なこのホテルの雰囲気は、里加にはかなり物足りないものだった。
だが、山本がここを選んでしまったのだから、今さら文句をつけてもしょうがない。
たまにはシンプルな部屋でやるのも面白いかも知れない――と、自分を納得させながら、里加は廊下を歩いた。
「五〇五……ここだな」
山本は立ち止まり、キーの番号とドアのナンバープレートを見比べた。
そして、キーを鍵穴に差し込んだ。
この瞬間が、里加はなぜか好きだった。
約七カ月前に、里加は交通事故で夫を亡くした。結婚して二年間、二十三歳と四カ月で、未亡人になってしまった。
里加が飲み屋やテレクラや街なかで男をつかまえて行きずりのセックスをするようになったのは、夫の死後である。生前には、不倫は一度もしなかった。不倫の体験をする間もなく、未亡人になってしまったのだ。
そのせいか、夫の死後、里加は強い不倫願望をもつようになった。
未亡人が亡夫以外の男とセックスするのは不倫ではない。再婚しない限り、不倫はできない。――そう思うと、なんだか不倫というものが、スリルがあって、味が濃く、とても心地よいもののように思えてきて、やってみたくてたまらなくなる里加なのだ。
不倫ができないのなら、せめて不倫にちかい不健康なかたちで男と関係してみたい……そんな思いが、行きずりのセックスへと、里加を駆りたてていた。
知り合ったばかりの、素性も判らない男とラブホテルに入る。
男が、部屋の鍵を開ける。
その瞬間に、奇妙にも、里加の、〃不倫感〃は最初のピークを迎える。
だから、この瞬間が、ゾクゾクするほど里加は好きなのだ。
ドアが開いた。
山本がまず中に入り、明かりをつけた。
里加も入った。
外観も、フロントや廊下の造りも、地味で面白味のないホテルの部屋は、案の定、味気ないものだった。
少し広めのワンルームマンションのような室内に、眼につくものといえば、ダブルベッドとテレビと冷蔵庫ぐらいしかない。
オーナーの趣味がよほどおとなしいのか、天井と壁はベージュ、カーテンとカーペットは淡いピンク色である。
まるで、インテリアに無関心の独身者のマンションに入ったような錯覚に陥ってしまう。
「やっぱりな……。つまんない部屋だな。失敗したなあ……」
山本は、安ホテルを選んでしまったことを後悔するように呟いた。
「平気よ。これはこれで、いいじゃない。あなたの部屋に遊びに来たみたいで、悪くないわ」
そばで里加が慰めた。
その言葉で気分をとりなおした山本は、バスルームのドアを開けて中に入り、バスタブに湯を入れはじめた。
「ユニット式?」
バスルームから出て来た山本に、里加は訊いた。
「うん。狭くってさ、二人で入ったらなんにもできないな……」
「お風呂で遊ぶつもりだったの?」
「まあね。きみは、そういうの嫌い? たとえばさ、お湯につかりながらファックするとか、シャワー使って刺激し合うとか」
「とくべつ嫌いってわけじゃないけど、別にやりたいとは思わないな、アタシは……」
そう答えたが、理加は実は、風呂場でペッティングをしたりファックをしたりするのが嫌いだった。
行きずりのセックスは、さわやかさ、清潔さに欠けるからこそ、行きずりなのだ。
あまりにもさわやかで、あまりにも清潔では、行きずりのセックスがうしろめたくなる。
不健康さと、多少の不潔さがあってこその〃不倫に近い行きずりセックス〃なのだと、里加は思っている。
だから、バスルームは清潔すぎて適さない。
二人で入れないほどバスルームが狭いと知って、里加は、内心ホッとした。
「ビールでも、飲む?」
冷蔵庫のほうを見て、山本が言った。
「いいわ、もう」
里加は首を振った。
今夜は山本をつかまえるまでにけっこう時間がかかってしまい、ハント場所のスナックで、かなりたくさん水割りを飲んでしまった。
これ以上酔うと、せっかくアルコールに助けられて高まっている下半身の感度が、鈍ってしまう恐れがある。
性器の感度がピークの状態を、なんとしても保っておきたい。愛情の足りないセックスでは、感度が大切なのだ。
「じゃ、いいや、俺も万が一にも、酔っぱらって勃起たなかった、なんていうんじゃ困るもんな」
山本は言い、ダブルベッドに歩み寄って、表情と手とで、里加を招いた。
里加は、山本に近づいた。
山本の息は、すでに弾んでいる。「三十一歳の普通のサラリーマン」と自己紹介した彼は、見かけよりも女性には慣れていないのかも知れないと、里加は、息の音を聞いて思った。
「ね、え、ほんとに花子なの?」
「花子じゃだめ?」
「だめじゃないけどさあ……。ほんとに、俺、名前呼んで笑っちゃうかも知れない。本名だったら、ごめん、笑ったときのために、先にあやまっとくよ」
「笑ってもいいわよ。アタシも、つられて笑っちゃうから。アタシって、笑うとね、別の部分も笑うんだから」
里加は、わざと声を湿らせて言い、右手で服の上から下腹部をかるく押さえて見せた。
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