飯干晃一 餌 食〜欲望編〜
目 次
第一話 北国への逃亡
第二話 フェリー船上事件
第三話 レイプと睡眠薬
第四話 モナリザの微笑
第五話 セクシーな組員
第六話 〃明石家さんむ〃の犯罪
あとがき
(C)Koichi Iboshi 1994
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第一話 北国への逃亡
1
「もう、あんたなんか信用できないわ。カネを返してよ」
喫茶店のなかだから、さすがにアケミは低い声で言った。これが戸外なら、彼女は金切声をあげていたことだろう。
「落ち着いてよ」
博子は彼女の顔を見ながら言った。
午後の喫茶店はあまり客はいなかった。だが、やはり大声は立てにくい。
アケミは憎々しげに目を剥き、怒りのために顔が赤黒くなり、頬をゆがめていた。
「カネは返す、と約束したじゃないの」
彼女はなおも追い討ちした。
「返す、返すと言いながら、いったい、いつ返してくれるのよ」
「だからさ」
博子もひるまずに相手の顔をじっと見た。
「いいこと、よく聞いてよ。あんたのカネは貸し金になっているのよ。ひとに貸してあるのよ。先方だってそのカネを遊ばせているわけじゃあないんだから、先方の都合だってあるわけじゃない?」
「そんなことは、もう聞き飽きたわ」
アケミは目を剥いたまま言った。
「あんた、もう利子だって六カ月も滞っているのよ。先方、先方とあんたは言うけれど、わたしはその先方にカネを貸した憶えはないのよ。わたしはあんたにカネを貸したんだから、あんたがわたしに返す義務があるのよ。これを見てよ」
アケミはハンドバッグをあけ、一枚の紙をコーヒーカップの前に置いた。
一金三千万円也の借用書だった。博子が書いてアケミに渡したものだった。
この借用書にはただし書きがあった。
ただし、月一分の利子三十万円を毎月末に支払うものとする。
アケミからこの紙きれを突きつけられたのは、いまさらのことではない。これで三度目だった。
「あ、ちょっと待って」
博子も同じようにハンドバッグをあけ、なかから白い封筒を取り出した。
「わたし、きのう先方にあなたの貸し金のことで掛け合いに行ったら、利子が滞って申し訳ない。必ず追いつかせるから、といって、三カ月分の利子をもらってきたの。改めてみて」
博子はその分厚い封筒をアケミの前に差し出した。
アケミはまず借用書をたいせつそうにハンドバッグにしまってから、白い封筒に手を出した。
アケミはどちらかというと肥満体だった。だが、口紅は真っ赤で、みるからに大きな乳房や、逞しいぐらいの腰つきは、男好きのするおんなといってよかった。
彼女は短くまるまるとした指で、封筒から紙幣を取り出し、不器用な手つきで一枚一枚を勘定しはじめた。
その指さきを眺めながら、博子はラークの包みから一本を取り出し、ダンヒルを鳴らして火を点けた。
ぷわっとケムリを吐く。
博子は歩くと、中年男がついふりかえりたくなるぐらいの美貌と、年齢の割にはスラリとした容姿だった。
紙幣を勘定しているアケミを見る博子の表情が変わった。
このブタおんなめ。
ありありと侮辱を露わにした彼女の眼差しだった。相手に面と向かってはぜったいに見せない露骨な表情だった。
時間をかけて、アケミの勘定は終わった。
「あった?」
のぞきこんだ博子は、元の何食わぬ顔に戻っていた。
「あったわ。九十万円」
アケミは目をあげた。さきほどの憎悪に満ちた彼女の顔つきは、幾分緩んだように見えたが、まだまだ油断はしないという表情は残っていた。
「とりあえず、滞っていた利子三カ月分を受け取ってもらったのだから」
博子はハンドバッグのなかから小型ノートを取り出した。
「ここにサインして」
仕方がないという身振りで、アケミは渡されたボールペンで、ノートの欄に金額と名前を書きこんだ。
そのノートを見ながら、
「まだ、三カ月分の利子は残っているわよ」
と彼女は念を押すように言った。
「わかっているわ」
ノートを返してもらって、博子はハンドバッグに戻した。
「だけどね」
アケミは硬い表情で言った。
「最初カネを貸す時に、わたしが要求した時はいつでも解約できて、借りたカネは必ず返すと、あんたは約束したわね」
「ええ、そうよ」
「利子が滞った時、わたしはカネを返してくれと、あんたに頼んだ。半年前のことよ。それが、いままでズルズルと延ばされっ放しなのよ、わたしは」
博子は黙って聞いた。この半年耳にタコができるぐらいに聞いている言葉だった。
「半年よ」
アケミは強調した。
「きょう三カ月分の利子をもらったからといって、こんなものは三千万円の元金にくらべると、はしたガネだわ」
いらなきゃ、返せ。もうすんでのところで博子は叫びたくなった。
このめすブタめ。
だが、博子はその嫌悪の表情をちらりとも見せなかった。さすがに、客商売で鍛えられただけはあった。
「もう、わたしは堪忍袋の緒が切れたわ。こうなったら、もう出るところへ出るしかないと決心しているのよ。毎月、あんたは来月になったら返すと、いつも繰り返し繰り返し言ってるくせに、いったい、いつになったら実行してくれるのよ。九十万円ぼっちの利子の支払いぐらいでは、わたしは瞞されませんからね」
アケミの顔からは、利子を受け取った時の幾分緩んだような表情はとっくに消え失せ、まるで歯ぎしりせんばかりの憎悪の表情を再び剥き出しにしていた。
「ねえ」
いきなりアケミは小狡そうな作り笑いを浮かべて言った。
「あんただって、いままでそうとうに稼いだんだから、人にカネを貸しているったって、手許には二、三千万円ぐらいの預金はあるでしょう」
アケミは三十六歳で、博子は三つ下の三十三歳だった。
二人は知り合って十五年になる。
彼女らは出身地こそ違うが、吉原のソープランドで出会い仲よくなった。そうでない時もあったがススキノ、川崎、金津園、雄琴、東中洲といっしょに渡り歩き、いまは、いささか落ちぶれた恰好で、二人ともピンサロ勤めである。
二人がもしほんとうの親友で、若い時の荒稼ぎでカネを貯めていたら、いまごろは東京でも一等地のスナックの共同経営者ぐらいにはなれていたかもしれない。
だが、女の友情はすぐに男によって壊される運命にある。
彼女らの十五年のつき合いも、じつは五年間の空白がある。つまりはめいめいに男ができて、その間は没交渉だった。二人とも男のためひどい目に遭い、再会した時は、知り始めのころとはコロリと変わっていた。
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