山口 香 蜜肌の狩人
目 次
第一章 若妻の渇き
第二章 夢見る天使
第三章 モデルの白い丘
第四章 禁断の果実
第五章 筆あそび
第六章 天女の花芯
第七章 歌姫人形
第八章 人魚の唇
(C)Kaoru Yamaguchi
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第一章 若妻の渇き
1
小伊京百貨店新宿本店は、連日女性客でにぎわっていた。
秋物ファッションバザール――八階の特設フロアではミニファッションショーが開催され、見物客で押すな押すなの盛況状態であった。
小伊京百貨店は新宿本店をはじめ、三鷹、立川、松戸、川崎、藤沢などに店舗を持ち、総従業員数約六千人である。
特に新宿本店ではファッション衣料品に力を入れており、売上げの約四十五パーセントが衣料品であった。
新宿には大手七社の百貨店がある。その中で小伊京百貨店は、総売上げ額では五位であるが、ファッション衣料品部門では一位であった。
営業部第三課(外商)顧客係係長の中条幹夫は得意先の会社の社長夫人に付き添って、買い物を終えると、彼女を送ってお客様駐車場へ向った。
「じゃあ、おねがいね」
「わかりました、一週間以内にはお届け出来ると思いますので……本日はどうも、ありがとうございました。社長さんにも、くれぐれもよろしくお伝えください」
社長夫人が車に乗りこむと、中条は彼女に向かって深々と頭を下げた。
車が駐車場から出たのを見届けてから、百貨店の事務所フロアに戻った。
小伊京百貨店は地上十五階、地下三階が店舗フロアである。従業員用の事務室、社員食堂、ロッカールームなどは地下三階の店舗フロアのそのまた下の、地下四階になっていた。したがって建物自体は地上十五階、地下五階になるのであった。
中条が営業部の自席に戻った時、机の上の電話が鳴った。
営業部第三課は男性十七名、女性四名の総勢二十一名である。課内は顧客係と宣伝係に分かれていた。課長をはじめ、男性課員は出払っていて、四人の女性課員だけだった。
その四人の女性課員にチラチラと視線を投げ掛けながら、中条は送受器を取り上げた。
「中条係長、東洋電機の、鶴田専務の奥さまが一階の受付にお見えになっていらっしゃいます」
交換嬢の甘い響きのある声が流れてきた。
「あっ、そう、すぐに伺います、と伝えて……ところで裕子さん、いい声だね。身体がジーンと痺れちゃいそうだよ」
中条の脳裏に女の顔が浮かんできた。一年前に入社したかわいい交換嬢であった。
「また……中条係長、ご冗談を……声だけ美人ておっしゃりたいの?」
「顔やスタイルはもちろんだが、特にそのウグイスのような声がすばらしい。一度、ぼくの腕の中で聞かせてほしいな……」
「何を言ってらっしゃるの。さあ、鶴田専務の奥さんがお待ちですよ」
「今度、デイトに誘いたいな……」
中条がそう言った時、交換嬢は電話を切ってしまった。中条もゆっくり送受器を戻し、ネクタイの結び目を直した。
中条と交換嬢の会話を聞いていたそばの女性課員が目許にうっすらと笑みを浮かべて、
「中条係長ったら、中年のいやらしさ、むき出しね」
とつぶやくように言った。
「中年はないよ。まだ三十七歳だぜ」
「三十過ぎたらオジンよ」
「オジンで結構。さあ、仕事、仕事」
中条は吐き捨てるように言うと事務室を飛び出した。
従業員用の大型のエレベーターで一階に向かった。商品が山積みされている従業員通路を小走りして店舗フロアに出た途端、背筋を伸ばしてゆっくりと歩いた。客の間を縫うようにして玄関口に向かった。
受付案内カウンターの脇に二人の女性が立っている。
東洋電機の鶴田専務の妻真帆と、彼女の義理の娘にあたる佳恵であった。
鶴田真帆は三十歳前後と想われる。元は、東洋電機の秘書課に勤めていて、三年前に鶴田専務の前夫人が癌で亡くなり、専務に見染められた真帆が二年前に後妻に入った、と中条は彼女から聞いていた。
真帆の義理の娘の佳恵は一年前に、お嬢さま学校として有名な私立女子大学を卒業して父親の会社の秘書課に勤めていて、一カ月後には結婚することになっていた。相手の男性も東洋電機の秘書課勤務だということだった。
中条は二人の前に立った。そして、
「奥さま、いらっしゃいませ。いつもお世話になっており、ありがとうございます。お嬢さま、このたびはおめでとうございます」
と声を掛け、深々と二人に向かって頭を下げた。
「お忙しいところお呼びだてして申し訳ありません」
真帆がハンドバックを両手で抱え持つようにして小さく頭を下げた。
「いえ、それできょうはまた何かお求めですか?」
「佳恵さんのお嫁入り道具は一応揃って、新居のマンションへ運んでもらったのですが……タンスがもう一竿ほしいと思いましてね」
先日、結婚道具として必要な電化製品と鏡台や家具など一千万円あまりの注文を受け、新居のマンションへ運びこんだばかりであった。東洋電機も鶴田家も、中条にとっては大切な顧客である。そのために運送係の者と一緒にマンションに出向き、立ち合ったのだった。
成城学園の住宅街の一角に建つ、高級マンションの最上階の角部屋の四LDKだった。
「そうですか、ありがとうございます。じゃあ、家具売場にまいりましょう」
中条は二人をうながしてエレベーターホールに向かって歩き出した。
2
「それじゃあ、三日後の昼過ぎに、ということで配送手続きをしますので……奥さま、もしよろしければお茶でもいかがですか?」
鶴田家は大切な顧客。これからもどんどん購入してもらわなければならない。他の百貨店に逃げられてしまったら中条の売上げに大きくひびくのである。
「そうね。少し休んでから帰りましょう」
真帆が答えると、その言葉を遮るように、
「あたし、これからお友だちと会うの。だから失礼するわ」
と佳恵が言った。そして、じゃあ中条さん、三日後の昼過ぎにあたしマンションに行っていますからおねがいします、と続いて言いながら、ゆっくりと中条と真帆の前から離れて行った。
中条は最上階のレストランに真帆を案内した。
窓辺のテーブル席で向かい合い、飲み物を訊ねる。真帆はフルーツのミックスジュース、中条はホットコーヒーを注文した。
「お嬢さまの結婚式があと一カ月後に迫って、お忙しいでしょうね」
中条は真帆を見つめて言った。
スラリとした美しい人妻である。丸顔で色白、目鼻立ちもしっかりしていて化粧映えしている。セミロングのウェーブヘアは房々として黒光りしていた。その黒髪のすき間から見え隠れしている耳朶には真珠のピアスが付けられていて、色っぽさの中にも湿っとりとした人妻の落ちつきが感じられた。
濃紺の丸首のワンピース姿である。同色のベルトで細いウエストを締めつけているため、胸のふくらみが大きく飛び出して見えた。
「そうですね。でも、もう準備はすべて整ったので、あとはお式を待つばかりですわ」
飲み物が運ばれてきた。中条はフルーツミックスジュースを真帆に勧めて、自分はコーヒーカップを取り上げた。
「お嬢さんのお相手の方も、会社の秘書課の人でしたよね。将来は鶴田専務が社長になられて、お嬢さまのお相手の方が専務さんに……」
「いえ、佳恵さんの上に二人の兄がいますから。そちらが先でしょう」
「あっ、そうでしたね。でも、いずれは……」
佳恵の上に二人の兄がいることを中条は思い出した。総務部と営業部の課長であり、どちらもすでに結婚して独立していた。得意先の東洋電機に出向いた時、なんどかあいさつを交わしたことがあった。
「鶴田専務さんは顔の広いお方ですから、お嬢さまの結婚式は盛大でしょうね」
「披露宴には千人近くの方にお越しいただく予定だとか主人が申していました」
真帆は左手でフルーツミックスジュースのグラスを持ち上げ、右手の指先で持ったストローで、うつ向くようにして少しだけ口に含んだ。赤い口紅を塗った唇がかすかにすぼまり、鮮やかな光りを放った。
(まるで白魚のような指だな。この手で鶴田専務のものを握って、そのかわいい口に咥えてしゃぶるのか……)
中条は真帆の口許から手許に視線を這わした。その途端、淫らな想いが湧き上がってきた。
真帆の左手の薬指には金色の結婚リングがはめられていた。また右手の薬指にはピアスと同様の真珠の指輪がキラキラと光っていた。
「そうでしたね。引出物もたしか千二百、ご注文を受けたまわっていますから。政治家、財界人の方も多いでしょうね。鶴田専務さんもおめでた続きで、うれしい限りじゃありませんか?」
「おめでた続きって?」
真帆は膝の上に置いていたハンカチを取り上げ、口許にそっと押しあてた。そして上目遣いに中条を見つめた。
二重まぶたの、瞳の大きなクリクリした目である。瞳の中心は艶光りの輝きを放っていた。
「いえ、奥さまのような若くてお美しい方をもらわれて、今度はお嬢さまのご結婚……おめでた続きじゃありませんか。それに来年にはお孫さんってこともありますでしょうし」
「あたしとの結婚は別にしても、佳恵さんの結婚は、主人はよろこんでいますわ。でも、あたしにとってみれば、ちょっぴり恥ずかしいですわ」
恥ずかしい、言いながらも真帆の表情はかすかに曇った。またうつ向くようにして口許にハンカチをあてた。
「恥ずかしいって、奥さまが?」
「佳恵さんは二十三歳。あたしは……一応は親子になるんですけど……それに主人とは三十歳あまりの差があるんですから、何かと」
真帆は言葉を濁した。
鶴田専務と真帆は三十歳の年齢差。二人の結婚を知っている者たちは何かと噂を立てるだろう。
鶴田専務に対しては好色な親父が金で若い女を買ったと罵り、真帆に対しては財産狙いだとさげすむだろう。
中条はふとそう思った。その途端、真帆に対して、愛らしさといとおしさを感じた。
「夫婦に年齢の差なんてありませんよ。おたがいがしあわせであればいいんですよ。他人には関係ないことですから……」
中条はそう言った。しかしその直後に、よけいなことを言ってしまった、と思った。
「そうですわね。夫婦のことは他人にはわかりませんわね……」
「よけいなことを言いまして申し訳ありません。気を悪くなさらないでください」
「いいえ、いいですわ……それより中条さん、今夜でもお時間いただけませんか?」
「今夜ですか、別になにも用事がありませんのでかまいせんが、なにか?」
「佳恵さんの結婚のことも含めて、なにかとご相談したいんですけど」
「そうですか、それじゃあ、どこかでお食事でもいかがでしょうか……」
人妻とはいえ、美しい女性と二人だけで食事が出来るというのは男性にとってはたのしいことである。ましてや、下半身に人格なし――を自認する中条にとっては棚からぼたもち、の心境だった。
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