山口 香 嫋やかな狩人
目 次
第一話 美和子の唇
第二話 奈々代の唇
第三話 りえの唇
第四話 里恵子の唇
第五話 明奈の唇
第六話 ルミ子の唇
第七話 みどりと小百合の唇
第八話 実保の唇
第九話 紀子の唇
(C)Kaoru Yamaguchi
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第一話 美和子の唇
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首都テレビ局の地下三階の第一スタジオは、高視聴率である歌謡番組〈ヒットソングアワー〉の生本番の真っ最中であった。
「それでは今夜の特別ゲスト、川合美和子さんに歌っていただきましょう。歌はもちろん大ヒット中の『夫婦星』です……どうぞ……」
司会者の声に続いて、ステージ上をいくつものスポットライトが飛び交い、一つになって着物姿の女を浮かび上がらせた。
前奏が流れはじめると、マイクを片手に持った川合美和子が軽く上半身を斜めにして挨拶をした。ゆっくりと顔を起こした彼女の表情には満面の笑みが浮かんでいた。
川合美和子は甘い響きのある声で歌いはじめた。草履を履いた白い足袋足で軽くリズムを取りながら演歌を歌っていった。
川合美和子は二十八歳。十三歳の時、映画「少女ライダー」で主演としてデビューした。星の国からきた少女が学園騒動に巻き込まれ、暴れまくって解決していくというストーリーであった。そのデビュー映画の中で特にすばらしいと評価されたのは演技力ではなく、彼女の生まれ育って持った笑顔であった。
その映画によって、彼女は一躍少女スターになった。二作目「野獣の微笑み」、三作目「恋人たちの街」、四作目「旅立ち」と半年目ごとの映画がヒットしていった。
テレビドラマの出演依頼も続出した。首都テレビの連続ドラマ「わたしは大人?」は最初は二クール〈六カ月〉の予定であったが、彼女の演じる高校三年生の女生徒の人気が高まり、脚本に手を加え、一年間の延長となった。女子高校生の抱く悩みを表わしたドラマであった。
彼女の笑顔はバラエティーにも受けた。笑い転げる川合美和子を見ていると、テレビの前の視聴者も引き込まれて笑い出すほどであった。
化粧品や車、電化製品などのコマーシャルにも彼女の笑顔は振りまかれた。
お茶の間の人気者にもなっていた。
しかし、そんな彼女には、なぜか恋の噂がなかった。二十歳をすぎた人気女優やタレントには、恋の噂がつきものである。スポーツ新聞や週刊誌などでは、男性と話したり歩いたりしていただけで、恋人か? と書きたてて騒ぐのに、川合美和子にはそんなことがまったくなかった。
そんな彼女に対して、
川合美和子はレズビアンではないのか?――
週刊誌の隅の囲み記事にそんな見出しが出たが、すぐに消えてしまった。
スターの人気もいくつもの山がある。十三歳から一気にスターダムに昇りつめた川合美和子も二十三、四歳になると、後発女優やタレントたちに押されてくる。一気に天国から地獄には落ちないまでも、少しずつ下降線をたどるようになる。俗に言われる、芸人の充電期間、である。
川合美和子もこの充電期間に入った。
しかし一度失った人気は、充電期間が終わっても、取り戻すことがむずかしい。
映画やドラマの女優としての仕事は少なくなり、別の活路を開いて当面はそちらからのし上がるしかない。
川合美和子は二十六歳の時、ヘアヌード写真集「天使の微笑」を出版した。吊り鐘型の乳房、女陰を覆う黒々としたアンダーヘア、そして満面の笑み。
堕ちた微笑みの天使――
天女から魔女に変身した女――
男を知らない川合美和子の肉体――
芸能マスコミはそんな見出しで騒ぎたてた。そのために良し悪しは別にして、また川合美和子はファンに注目されるようになった。
首都テレビ局のドラマ班、制作局第四制作部が、午後九時から一時間の、ゴールデンタイムの連続ドラマに脇役として彼女を出演させた。
「一人っ子」――大阪浪速の食堂の一人娘がレストランを開業するまでの根性物語であり、川合美和子はこのストーリーの中の劇場で演歌歌手の修業をしているローレル照子という役柄であった。彼女はローレル照子になってドラマの中で演歌を歌った。その演歌「夫婦星」がドラマ半年目でヒットしはじめ、川合美和子の所属するプロダクションがレコード会社と提携してCDを発売した。
ローレル照子こと川合美和子の歌う「夫婦星」は、CD発売後二週間でヒットチャートのベスト三十位に乗り、一カ月目にはトップテンに躍り出ていた。そして五週連続のトップテン入りが続いた。
「夫婦星」のヒットにより、ドラマ「一人っ子」も高視聴率を上げ、ローレル照子の歌の場面になった時の瞬間視聴率は四十二パーセントを記録した。
二クールで終了したドラマ「一人っ子」だが、その後二時間のスペシャルドラマとなって、またお茶の間をにぎわした。
川合美和子の人気も以前昇りつめたところまでにはいかないものの、それなりに上昇し、女優としての安定期に入った。彼女の特徴である笑顔がコマーシャルにも戻ってきて、大人の魅力の漂いだした彼女にファンも増えてきた。
そして今夜の〈ヒットソングアワー〉の生本番の特別ゲストとして出演したのであった。
川合美和子は歌い終わるとステージを降りた。〈ヒットソングアワー〉は残り五分というところであった。
〈ヒットソングアワー〉のプロデューサーである制作局第五制作部の部長の月野和則は、川合美和子の女性マネージャーと一緒に、スタジオの隅で生本番を見つめていた。
「川合美和子さんに出演してもらったおかげで今夜の〈ヒットソングアワー〉の視聴率も上がりましたよ。この後のスケジュールは、何かあります?」
月野は女性マネージャーの耳許に向かって低い声を掛けた。
「いえ、今夜はもう何もありませんが、何か?」
「だったら、軽くお食事でもいかがですか?」
「ありがとうございます……でも、わたくしは事務所に戻らなければなりませんので……」
女性マネージャーが言った時、川合美和子が近づいてきた。
「月野さん、今夜は大変にお世話になりました。これからもよろしくおねがいします」
彼女は月野に向かって深々と頭を下げた。
「いやいや、こちらこそ……歌はとってもよかったですよ」
「美和子さん、月野部長さんがお食事に誘ってくださっているの。あなたご一緒させていただいたら。わたくしは事務所に戻らなければならないから……」
女性マネージャーが言うと、
「えっ……よろしいんですか?」
川合美和子は胸許で両手を握りしめ、顔をほころばせた。両頬にうっすらと笑くぼが浮かび、紅い唇の間から健康そのものの白い歯並びが覗いて、キラキラと光り輝いた。
「もちろん、わたしのほうからぜひにとおねがいしていたのですよ」
「だったら、お伴させていただきます。あたし衣裳を脱いで着替えてきますわ」
「じゃあ、十分後に、局のロビーで待っていますよ」
月野はそう言って、川合美和子と女性マネージャーと連れ立って第一スタジオを出た。
二人と別れると、月野は赤坂の一角にある馴染みの料亭「満夕」に電話を掛け、離れ座敷を予約した。
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