官能小説販売サイト 中村嘉子 『濡れる誘惑』
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中村嘉子    濡れる誘惑

目 次
第一話 氷の沸点
第二話 溢れる
第三話 ピアスの耳たぶ
第四話 野外で犯して
第五話 見えない雨
第六話 白く変わる時
第七話 まぶしい闇
第八話 指の分だけ待って
第九話 夏から秋の補色

(C)Yoshiko Nakamura

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   第一話 氷の沸点

     1

 朝食は、パンにした。
 ロールパンにとろけるチーズとハムをはさんでオーブントースターで焼き、焼き上がったところへレタスをはさんだ。
 コーヒーも、インスタントを使わず、ドリップ式でれた。
 トマトとキュウリのサラダと、果汁百パーセントのオレンジジュースも添えテーブルに出した。
 だが、夫の史朗は、その朝食には手をつけなかった。
 勤めに出る用意をしてダイニングキッチンにやって来て、テーブルの上のものをチラッと見ると、すぐに自分で煎茶を淹れはじめた。
 そして、テーブルについてからは、その上に妻の用意した朝食など無いかのごとく煎茶をすすり、新聞を読んだ。
 だが、夫のそんな態度に、まちはひとことも文句を言わなかった。
 顔を隠すようにして新聞を読んでいる夫の向かい側に座り、ひとりで自分の分のパンをほんの少しだけ食べ、コーヒーを飲んだ。
 目玉焼きは、ひとり卵一個で作る。
 だが、同じ卵一個分の目玉焼きでも、二ヵ月前と今とでは作り方が違っていた。
 二ヵ月前は、二個の卵を同時にフライパンに落として焼いた。焼き上がったものを、二つに分けて、片目ずつ食べた。
 が、今は、一個ずつ焼いている。
 作り方を変えたことには、さして意味はない。
 ただ、作り手である待子の心の中に、夫との関係の変化がしっかりとインプットされているために、自然とそういう作り方になってしまうらしい。
 サラダにしても、以前は大きめのサラダボウルにひとつに盛って、好きな量を取って食べていたのだが、今は、小さなボウル二つにあらかじめ分けて出す。
 和洋問わず、ほかの料理に関しても、同じようなやり方をしている。
 もっとも、どんなやり方をしたところで、待子の作ったものを史朗は食べないのだから、そんなことはどうでもいいことなのだ。待子が勝手にやっているだけだ。
 音をたてて、史朗は煎茶を啜った。
 新聞を熱心に読んでいる。もともとは、男のわりにあまり新聞を読まないほうだったのだが、二人の関係がおかしくなってからは、朝の気まずい時間つぶしを、もっぱら新聞に頼っているようだ。
 待子にしても、テーブルをはさんでじかに顔が合ったりするより、新聞紙が間にあるほうが、あまり息がつまらなくてありがたい。
 塩味の薄い目玉焼きを、待子は、食べずにフォークで突きさした。
 もしも、この目玉焼きを史朗が食べるとすれば、こんな薄味では満足せず、さらに塩をたくさんかけて食べるに違いない。
 待子は、史朗の好む塩加減を知っている。
 だが、あえて今は薄塩にする。
 史朗が、どんな料理を出しても食べないことがわかっているからだ。
 どうせ捨てる料理に、余分な塩は使いたくない。
 食べないと判っている料理をわざわざ作り、そして、捨てる。そのくせ、わずかな塩にケチケチとこだわる――。そんな自分自身を、待子はこのごろ、けっこう冷静な眼でみつめている。
 そして、それは自分が夫に対してもう愛情を感じていないからだと分析している。夫が今、自分を愛してくれていないように、自分も夫を愛していないからだと……。
「おい」
 飲み終えた湯呑みをテーブルに置きながら、史朗が珍しく声をかけてきた。
 待子はそれに声では応えず、ただ顔だけを前に向けた。
 史朗の顔は、新聞に隠れたままだった。
 顔を合わせないようにしている夫に、待子はかえってホッとした。
 今、面と向かい合っても、どんな顔をしたらいいのか判らない。必要以上に夫を不快にするような表情をしてしまうかも知れないし、逆に、不自然にびた顔をしてしまうかも知れない。
 そういった作り顔によって、自分の〃本性〃を夫に見せることがたまらなくいやだった。
「金」
 思い切り短かいセンテンスで、史朗は用件を言った。
 関係がだめになってからは、いつもこうだ。
 同じそっけなさでも、世間でよく言う「メシ」、「風呂」、「寝る」とはかなり意味の違ったそっけなさであることを、待子は知っている。
 世間の亭主の「メシ」や「風呂」は、多くを語るのが面倒くさいからなのだろうが、史朗のは逆で、言いたいことがたくさんあるのに、それを抑えているがための「おい」や「金」なのだ。
 待子は黙って椅子から立ち、冷蔵庫の上の自分の財布の中から、一万円札を一枚取り出して、史朗の湯呑みのそばへ置いた。
 こんな状態なのに、自分が財布を握っていることが、待子には不思議に思える。
 働いているのは史朗で、待子はパートの勤めにも出ていない。
 夫婦の仲がまともなら、そので妻が財布を管理していても少しもおかしくはないのだが、待子と史朗のような関係で、ほうの待子が財布を握っているというのは妙な話だ。
 だが、史朗は〃妻の料理はいっさい口にしない〃、〃会話は必要最低限しかしない〃といった強い報復の姿勢をとりながら、不思議に経済のことは口にしないのだ。銀行振込みの給料を、今まで通り妻が管理し、必要な分を、夫はそこから受け取っている。
 変わった点があるとすれば、史朗が「金」という回数が、以前より少し多くなったことぐらいだ。
 しかし、多くなったと言っても、二回が十回になったというわけではない。せいぜい月に二、三万、小遣いが増えたという程度である。
 夫の心の中が、待子には判らない。
 もっとも、知りたいとも思わない。
 知ってしまうのが、恐ろしい……。
 史朗は相変わらず片手で新聞を持って顔を隠したまま、もう一方の手で一万円札を取り、背広のポケットに突っ込んだ。
 
 
 
 
〜〜『濡れる誘惑』(中村嘉子)〜〜
 
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