中村嘉子 美唇の扉
目 次
重たい水滴青い点・赤い線
くすぐる声
私のための花
距離の不倫
月イチの花
女たちは眠れない
水の糸、花の糸
醒めた果実
ダイヤモンドは軟らかい
赤の夢
痛痒い午後
(C)Yoshiko Nakamura
◎ご注意
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、改竄、公衆送信すること、および有償無償にかかわらず、本データを第三者に譲渡することを禁じます。
個人利用の目的以外での複製等の違法行為、もしくは第三者へ譲渡をしますと著作権法、その他関連法によって処罰されます。
重たい水滴
1
活気づいてきた街の気配を窓越しに感じて、由実はごく自然に眼を覚ました。
眼覚まし時計など、要らない。
あるにはあるが、眼覚める時刻をとくに決めていないから、眼覚ましをセットする必要はない。
つい最近まで、OL生活の慌ただしい朝を支えてくれた小型のアラーム付き置時計は、今は実用性の薄い置き物となって、チェストの上にある。
ベッドの上で眼を開けた由実は、その眼覚まし時計ではなく、壁にかけられたスヌーピーのまるい大きな時計のほうを見た。
午前十一時を、二十五、六分過ぎていた。
だいたいいつも通りの、眼覚めの時間だ。
はやくて午前十時半前後、遅くても十二時前には、――アラームの助け無しで眼を覚ますのが、OLをやめてコンビニのバイトをはじめてからの由実のつねだった。
コンビニでのバイトは、月曜から金曜までの週五日。時間は午前一時から午前六時までの、深夜から明け方の五時間のみ。
その仕事を終えてアパートに帰り、生野菜かなにか軽いものを食べながら、缶ビールを一本か二本飲んで、ベッドに入る。
眠りにつくのは、だいたい午前八時前後になる。
この深夜のバイト生活のリズムが、午前十一時前後の自然の起床につながるのだろう。
上半身を、由実はベッドから起こした。
今朝はとくに眼覚めがいい。頭の中がスッキリしていて、胃のあたりも軽い。
〈なんでかな?〉
と思い、すぐに、
〈ビールをふた缶飲んだからだ〉
と、決めつけた。
由実の場合、缶ビールニ本ぐらいが、寝酒としては適量らしい。一本より二本飲んで眠ったほうが、朝スキッと起きられる。
けっこうアルコールはイケるくちだ。
中途半端にイケるので、飲んで失敗することも、OL時代は少なくなかった。
居酒屋で、つい話し相手になってしまった中年男に、つきまとわれたことがある。一つ歳下の男性社員に、会社の忘年会で優しくしすぎ、勘違いされてプロポーズされたこともある。
失敗は、いろいろあった。
だが、由実は自分のことを“少し酒グセの悪い女”とは自覚しているが、“尻の軽い女”とは決して思っていない。
事実、中年男につきまとわれても、歳下にプロポーズされても、なりゆきまかせに彼らと男女の仲になることはなかった。
その目立つ外見や、開放的なアルコールの飲み方に反して、由実の身持ちはいい。
ただし、唯一の例外はあった。
高杉明人を拒むことだけは、できなかった。
会社の上司の高杉とは、去年の秋の社員旅行のとき、不倫の関係に陥った。
お互い、アルコールが入ってはいたが、本気の不倫だった。高杉はともかく、少なくとも由実は、彼の求めを真剣に受けとめた。
三十九歳の妻子ある上司との不倫は、見かけよりもかたい由実にとって、かなり勇気のいるものだった。
その不倫の関係が、会社をやめた今もつづいている。
いや、会社をやめたことじたいが、高杉との不倫をつづけるための手段だった。
社内不倫は、すぐバレる。
バレるまえに、社外不倫に変えたのだ。
由実の意思だった。
だが、高杉も、由実のその決断を悦んだ。
バレずに、つづけられるだけつづけたいというのが、二人の共通の願望だった。
〈……今日は、何曜……? ええと……金曜だわ……〉
ベッドから降りた由実は、壁のカレンダーを何秒間か見て、やっと今日が金曜日であることを知った。
アルバイト生活に入って、曜日の感覚が鈍っていた。
|