中村嘉子 若すぎる未亡人
目 次
ミクロの情愛
小柴胡湯の人
街に立つ
二十二歳の“ピュッ”
イケイケの夜は更ける
女高生的変身
蒼い制服天使たち
雨の魔
別の蜜
若すぎる未亡人
(C)Yoshiko Nakamura
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ミクロの情愛
1
二週間のロケから帰り、玄関の鍵を開けて中へ入ってみると、夫婦の寝室にあるベビーベッドの中で、娘の亜矢が泣いていた。
〈いやだわ……亜矢のことほっといて……。明也、どこ行ったのかしら……?〉
玄関から入ってこの部屋に来るまでに、廊下を通り、階段を昇りながら、ダイニングキッチンと夫の部屋を覗いて見たが、どちらにも明也はいず、明かりすらついていなかった。
通いで来てくれているお手伝いさんの姿もないが、これはしかたがない。もう午後十一時を過ぎている。
お手伝いさんが帰ってしまう午後七時以降は、亜矢の世話は夫の明也の役目なのだ。
「んもうっ……! 無責任なんだからァ……」
夏実は、吐くように言って、舌を打った。
フランス製の、夢のあるデザインのベビーベッドの中で、生後四か月足らずの亜矢は、火がついたように泣きつづけている。
「……どうしたのかしら? 泣きすぎなんじゃないの……? オシッコしてるのかしら? それとも、おなか空いてるのかな……?」
オシメ替えにもミルクづくりにも自信がないので、せめて母親らしいセリフくらい言わなければならないと思い、夏実は呟いた。
そして、おそるおそるベビーベッドに近づいた。
そばに寄ってみると、亜矢の躰とその周囲は、ひどく乳くさかった。それも飲めるようなミルク臭ではなく、吐き戻した乳のような……。
「やだァ……やっだァ……大丈夫なのォ……!?」
夏実は、慌てた。
我が子に、なにかいけないことが起きているような感じがするのだが、それがなんなのか、判らない。
亜矢が自分の体内から出てからの約四か月間、夏実は、子育てらしい行為をほとんどしていない。
だから、自分ひとりしかいないときに亜矢に泣かれるのが、恐くてしようがない。オシメが濡れているのか、おなかが空いているのか、それともほかのもっと深刻な理由なのか、判断ができないからだ。
亜矢が発しているすえたような乳くささが、夏実をひどく不安にした。
「……よしよし……泣かないの……ねえ、泣かないのよ。ママ、ここにちゃんといるからね……」
下手なセリフを言うように言いながら、夏実は、こわごわ、亜矢のオデコに手を伸ばし、他人のペットでも撫でるように二、三度撫でた。
そのとき、ドアが開いて、夫の明也が入って来た。
「なんだ……帰って来てたのか……」
「どこか行ってたの? こんな時間に……」
せめる口調で訊きながら、夏実は、夫のいでたちをジロジロと見た。
妙な恰好している。
安物らしい毛糸の帽子を目深にかぶり、どこかのオヤジが着ているようなセンスのないジャンパーを、寒そうに着込んでいる。そのうえ、まるでその服装に合わせでもするように、無精髭まではやしているのだ。
「なんて恰好してるの……」
「いいじゃないか。仕事が入ったら、ちゃんとするよ。髪も切るし、ヒゲもそる。おまえが買ってきたアルマーニも着るし……」
言いながら、明也は、毛糸の帽子を頭から取った。見るからに手入れ不足の長い髪が、パラリと顔へかかってきた。
夏実は、汚ないものでも見たように、眉を寄せた。
実際、夫のそんな姿を“汚ない”と感じていた。
こんなはずではなかったのだ。
三年前に、二人は仕事で知り合った。売り出し中の女優と、中ぐらいのヒットを二、三曲出した若手の作曲家としてである。
夏実が、はじめて主演するテレビドラマで主題歌もうたうことになり、それを作曲したのが明也だった。
さきに好きになったのは、夏実のほうだった。
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