中村嘉子 赤い蜜の女
目 次
独りきりはイヤ
赤い蜜の女
情事の赤い糸
奪わないで
処女のはらわた
感じる光景
姉さんのオトコ
ふしだらな同居人
魔に会う
夜はまかせて
(C)Yoshiko Nakamura
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独りきりはイヤ
1
肉屋で特別に分厚く切ってもらった松阪牛を、ステーキ用の鉄板にジュッと載せながら、紀子は、
〈しあわせだわ、私――〉
と、今さらながら思った。
〈啓之を夫に選んで、ほんとによかったわ。雅司や順二や江口なんかと一緒になってたら、今ごろは安アパートの狭っ苦しい台所で、ソーセージかなにか炒めてるんだわ、ふてくされた顔しちゃって……〉
国家試験に受かったばかりだから、まだ本当の意味で一人前の医者とは言えないかも知れないが、とにかく夫の啓之は、医師という社会的に幅の利く肩書を身につけた。
今や紀子は、青年医師の若奥様なのだ。
知り合ったころは、まだお互いに高校生だった。
「医者になるんだ」
が、口癖だったものの、将来、本当にそうなってくれるかどうか判らない啓之に対して、紀子は、つきあいはじめたころ、それほど本気にはなれなかった。
啓之のほうが夢中だったので、気のいい紀子は、彼をBFのひとりに加えたにすぎなかったのだ。
美人で明るい紀子には、そのころからBFがたくさんいた。
だが、そんな関係は、啓之が本当に医大に合格し、内科医としての道を歩みはじめたときから、急激にかたちを変えた。
紀子は、啓之のことを、“BFのひとり”ではなく、“恋人”と考えるようになり、啓之も、紀子のそんな態度の変化を大歓迎して、二人ははた目にも相思相愛の仲になった。
そうなってからも、短大生になった紀子のまわりには、つねに複数の男たちが寄り集まってきてはいたが、医者の妻になることに決めた紀子には、もう“お茶飲み友だち”以上の存在にはなり得なかった。
気のいい紀子は、そんな“お茶飲み友だち”と、短大在学中は適当に遊んでやり、卒業と同時に、彼らを遠ざけて、花嫁修業に勤しんだ。
そのかいあって、希望通り医師免許を得た啓之と、去年の秋、めでたく式を挙げ、リッチな新婚生活をこのマンションにもつことができたのだ。
なにからなにまでうまくいった。自分の選択に間違いはなかった――と、紀子は満足し、若妻の座に心地よく座る毎日だった。
「よく焼いたほうがいいんでしょ?」
バスルームからタオル地のガウンをまとって出てきた啓之に、紀子は、若妻らしく訊いた。
「そうだね。うんと焼いて。俺、ヤボテンだから、生焼けは食えないんだよ」
冷蔵庫からビールを出しながら、啓之は言った。
「ビール、あんまり飲まないでね。ワインがあるんだから」
ステーキを裏返しにしながら、紀子は笑った。
啓之がヤボテンでないことは、紀子が一番よく知っているのだ。
〈啓之がヤボテンなら、雅司とか順二なんて、どうなっちゃうのかしらね〉
高校や女子大のころつきあった“お茶飲み友だち”の中には、啓之の何倍も野暮で、何十倍もワルの男が、何人もいた。
気のいい紀子は、男にしつこく言い寄ってこられると、うまく断わることができず、相手を選ばずにつきあってしまうきらいが、そのころあったのだ。
野暮でワルの何人かの中でも、バーテンの雅司とパチンコ店員の順二は、特別だった。
雅司とは、女子大のコンパの二次会で酔って入った新宿のスナックで知り合ったのだが、彼が、その場にいた八人の女子大生のうち、紀子にだけ、電話番号を書いた紙きれをそっと手渡してくれたことに気分をよくし、薄暗いスナックの中で相手の顔もよく見ずに、デートにオーケーしてしまったのが、きっかけだった。
順二とは、渋谷の駅近くのパチンコ屋で知り合った。ゼミ仲間に約束をすっぽかされ、気分なおしに覚えたてのパチンコでもやろうと、その店に入ったところ、ハンサムとはいえないが長身で人あたりのいい彼が働いていて、“7”のそろいやすいフィーバー台を、そっと教えてくれたのだ。
雅司とは、啓之との結婚ギリギリまでつきあって、「結婚後はいっさい連絡をしない」という約束をなんとか取りつけて、別れた。
順二との関係は、一番親密で、やっかいだったのだが、うまい具合に去年の夏、傷害罪とかで刑務所へ入ってくれたので、別れ話の手間がはぶけてしまった。
おかげでしあわせな毎日があるわけなのだが、
〈あのひとたち、今ごろどうしているかしら……?〉
と、焼けた肉を皿に移しながら、紀子は急に彼らのことを思い出してしまった。
だが、それもほんの一瞬だけのことだった。
熱いステーキを載せた皿を、啓之の待つテーブルに運ぶときには、金も地位もない、そんな過去のワルたちのことは、記憶の底に沈んでいってしまった。
「おショウ油味のステーキなんだけど、口に合うかしら?」
「きみの味付けなら、美味しいにきまってるさ」
ワインの栓をあけながら、啓之は、上品な笑顔を向けてくれた。
こういう男の笑顔を、紀子は啓之とつきあうようになるまで知らなかった。
「サラリーマンみたいな時間に帰って来てくれて、嬉しいわ。こうやってゆっくりとお食事ができるんですもの」
「二十四時間勤務や、急の出勤が多いからね。半人前の病院勤めだからしかたないけど、きみには淋しい思いさせて可哀そうだと思ってるよ」
「平気よ、ちょっと淋しいけど、でも、我慢する。あなたのお仕事のためですもの」
「紀子…」
啓之は、食卓に不似合いな上擦った声で、急に妻の名を呼ぶと、ステーキを食べようとして持ち上げたナイフとフォークを、カチャンとテーブルの上へ戻してしまった。
「どうしたの? あなた」
「紀子、おいで……」
「えっ?」
「こっちへおいで……」
「だって今……。はやくステーキ食べてみて」
「おいでったら、さあ」
「ええ」
啓之の表情が、ベッドの上と同じように潤んでいるのを知った紀子は、素直に彼に寄って行った。
寄り添った紀子の腰のあたりを、啓之はヒシと抱きしめた。
「あなたったら……」
「愛してるよ、紀子」
「私だって……」
「きみを女房にできて、ほんとによかった」
「私こそ……」
「きみのために、立派な医者になるよ。だから、それまで我慢してくれな、淋しいだろうけど。浮気なんか、するなよ」
「するわけないじゃないの……」
「僕だけの紀子で、ずっといてくれよな」
「勿論よ。私は、あなただけのものよ。昔も、今も、これからも……」
「ああ、僕の紀子……」
啓之はますます上擦った声で言うと、紀子の躰を引き寄せ、膝の上へ座らせた。
そして、スカートの中へ、風呂上がりの指を這い込ませた。
「だめよ、今は……」
「今がいい」
「ステーキが……」
「冷えちまったら、また焼けばいいさ。肉は、よく焼いたほうが美味しい。でも、きみは、今が美味しい。今ほしい。我慢できない」
「まるで、だだっ子ね」
「きみの前ではね。愛してるよ、紀子……」
「あなた……」
啓之の突然湧き上がってきた熱情に抱きしめられ、紀子もその気になってきた。
ギュッと抱きしめられた下半身が燃えるように熱くなり、太腿の付け根のあたりがムズムズと騒ぎはじめ、そんな熱さとムズつきのなかで、下腹部の芯だけがキューンと緊張してきた。
たまらなくほしくなってきた。
「ほしい」と、甘ったるく訴えて、夫にしがみつきたい。
しがみついて、ほのかに消毒剤の香りのする首筋にしゃぶりつき、熱く疼く秘部を、彼の股間に擦りつけたい。
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